クマコラム
20000308

めでたい!
目出度い!
愛でたい!

なにが?
なにを?
いや〜〜〜〜、なにが?って、なにを?って、いわれても〜〜。

今日は、当HPの一周年なのだ、というだけなのだ。
6820人がみてくれたのかと思うと感慨深いモノがあるから
これからもこのHPを愛でていくつもりなのだ。
よろしくお願いいたします。これからも。

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今日、大阪に行って来た。
大阪って、なにかが違う。
北海道生まれの道産子として、そして20年以上関東近辺で生きてきたモノとして、なにかが違うと感じた。
最近、仕事で大阪に行くことが多い。
そのたびに感じるのだが、絶対的になにかが違う、大阪は。

バブルの頃、毎日仕事が終わって飲みに行くと、「おおさかで〜〜、うまれた〜〜」って友達が歌っていた。
桑名まさひろが、関西弁でロックを歌ってた。
憂歌団が、「パチンコ!パチンコ!」って歌ってた。
FM放送を聞きながら、神奈川から岡山へ向かう途中、名古屋を過ぎたあたりで大阪弁に変わっていく。

関東以北で生まれ育った、クマとしては違和感があった。
いいとか、悪いとかではない、違うモノとしての違和感を感じていた。
今日大阪に行って、しっかりと感じてしまった。
なにかが、ちがうのである!しっかりと観察してきた。

まず、ライブなのである。生きている感覚が伝わってくるのである。そのひとなりの生き方が。
裏や表はあるのだろうが、そのひとのライブが伝わってくるような感じがした。
人目を気にしないというと語弊があるかもしれない、身なりを気にしないというとさらに語弊があるかもしれない、しかし、周りの目を気にすることより、自分のことを優先する生き方をしているのではないかと感じたのだ。
とってもライブだと思った。そして、とっても素直だとも思った。
東京近辺のそれに比べて、とってもアジア的ないさぎよさを感じたのである。
(アジア的ないさぎよさとは、個人の価値判断で自分の生き方を決められるという意味ととらえて欲しい。その逆は、価値判断決定が、自分以外のところにあり、自分ではにっちもさっちもいかないので諦めてしまっている日本人的な意味と解釈しても構わない。)

東京では、電車に乗っていても、街を歩いていても、蝋人形のような顔をして、みんながすましている。
勝手にこっちの領域に入ってこようモノならただでおきませんよ!けっ!ってなぐあいにやっているのである。
クマが大学の卒業論文でやった「心理学的空間占有に関する研究」的にいうと、人には距離的な意味合いで心理的に侵されたくない領域があって、それは民族や性別の違いはあるもののおおむねある距離に入ってくると人は拒否反応を示すモノであり、それによって心地よいと思う空間の単位面積が決まってくる。
とすると関東の人間は、その距離領域の大きさが、関西の人に比べて大きいのだということになる。
「ら〜めん、は大盛りね」というと、おばちゃんが顔を近づけきて、にやっと「それはあきまへんのや」と言われてしまった。
長ったらしくなってしまったのだが、そうするに大阪の人は、「人なつっこいのではないだろうか」と思ってしまった。
逆に関東の人は、「人なつこくないのではないか」と感じた。

どっちがいいか、悪いかの議論は、さておき、そう感じたことは事実だ。
ライブで、アジア的。
往復の移動時間、雑誌「東京人」最新号の「昭和初期モボ・モガのすまいづくり」(モダンボーイ・モダンガールの略)を読んで、やはり概念的であり、自分をより飾るために手段としてすまいをつくってきたのかと感じさせられた。
(90才の宇野千代しか知らないのだが、その雑誌で何とまぁ若いときはきれいで、みずみずしかったのかとおどろいた。)

「おすまし」と「ライブ」
それが、東京と大阪なのだろう。

なんだか、意気込みすぎて、間延びしてしまったコラムになったのだが今日感じた世相はそうだったのだ。

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