基本設計図書が完成した。
建て主の森蔵ご夫妻、見積を依頼する施工業者3社に図書を送付した。
これから、後半戦の主役である工務店を決めていくのである。
この段階で、このプロジェクトは1/3ほど、経過した。
実は、すまいづくりプロジェクトで一番大切なのは、経過したこの1/3のプロセスなのである。
その理由を、私のすまい論から明らかにしてみよう。

私が大学の建築学科に入学したての頃、「自分の育った家のプランを書きなさい」という授業があった。
その頃は、鉛筆の持ち方もわからないど素人だったので、そんな簡単なことに四苦八苦した。
小学校4年生から高校卒業までの8年ほどを過ごしていたのだが、具体的に書き起こせなかった。
朝起きてから寝るまでの自分の動き、父の動き、母の動きを思い出した。
一日の家族の動きを舐めるように思い出し、やっとの思いで線にした。
そのすまいは、父親の会社の社宅であり、全く誰が住んでも可もなく不可もなく、身体に合わなくなれば移り住めばいいというような、どうでもいいプランだった。
しかし、私の家族はすまいに対して何の不満もなく毎日過ごしていたように記憶している。
その生活は、不自由でも人間には適応力があるということと、経験がないと不満を感じないことを示唆している。
当時の状況は、知れば知るほど過去の経験が色あせていく「知恵の悲しみ」が起こりにくい状況であったことも要因のひとつだろう。

一方、現在の世の中はどうだろうか?
ここ10年ほどで、一気にデジタル化が進み、知識にとどまらず、知恵にまで高められた情報まで簡単に入手できる。
一個人の知らない世界をその気さえあれば無尽蔵に手に入れられる時代だ。
このIT革命といわれる時代の変化によって、人間のライフスタイルも確実に変化している。
孤人であっても、孤独ではない。
目に見える身の回りに人がいなくても、コミュニケーションは可能であり、コミュニティと繋がっていることも可能だ。
一日中パソコンの前で一人っきりで居たとしても、いっぱいおしゃべりができるし、知りたい情報は手に入る。
誰とも会わずして、頭の中の空腹感は、十二分に満たすことができる。
しかし、孤人同志のコミュニケーションやコミュニティは、リアルなのだろうアンリアルなのだろうか。
リアリティに満ちあふれているとは思えないが、全くリアリティに欠けているとも言えない。
リアリティを得るためのきっかけにはなるだろうが、やはり顔色をうかがうことはできない。
まだまだ、IT革命の収斂先は見えていない状況だと感じる。

この状況下、すまいに求められる最重要課題は何なのだろうか?
今も昔も変わらないことは、様々な家族形態が存在することと、それらが感じている最重要課題は千差万別であること。
一般的な家族形態というと、じいちゃんばあちゃんから孫まで多世帯同居のイメージから夫婦子供二人の核家族へとは移っているものの、皆そうかというと皆違う。
様々な事情を抱えており、その形態もまるで同じものは存在しない。
その千差万別の事情を抱え込むすまいの理想型は、それぞれ特殊解であり、一般解は存在しない。
私はそれぞれのすまいを考えながら、家族形態別の特殊解を探ると同時に、今の時代を読んだ一般解も探ろうとする。
その模索は、家族と今の時代を読み込んだ普遍性のある特殊解を求めることでもある。

今日的時代を反映した一般解は、ずばり徹底したリアリティの追求であると考える。
顔色の見えるコミュニケーション(人間関係のあり方)、光と風(自然とのつき合い)、裸火(自給と脅威の学習)。
自我を持った個人でありつつも、孤室はいらない。
ゆるやかに家庭内の孤人がそれぞれの気配を読みとり、顔色を感じながら生活する。
季節によって、心地よい場所は変化する。
日だまりが恋しい季節、そよぐ風がありがたい季節、それぞれに応じて家庭内引越がふさわしい。
電化が進むすまいの中で、家庭内からなくなりつつある裸火は、貴重なリアリティ源だと考える。
掃除がしやすく、さわっても熱くないIHクッキングヒーターは、素晴らしい進化である。
しかし、何故お湯が沸き、煮炊きができるか、リアリティに欠ける。
エネルギーを得るために汗水流して苦労することが、ありがたさを増長させる。
裸火は、何もかも燃えつくす自然の驚異を再認識させてくれる。
薪ストーブや囲炉裏は、人間の五感を刺激して生活にリアリティをもたらす。

生身の人間が暮らし合うすまいにあっては、リアリティに満ちあふれたハードがやさしく人間を包み込むのだと思えてならない。
そこに嘘はあってはならないし、できるだけ本物の癒しで包み込んでいきたい。
大きな空間を中心にそれぞれに合わせた小空間が微妙にからみ合っていく。
川に住む魚が、リバー(本流)、ストリーム(支流)、ワンド(よどみ)と拾餌、繁殖、休息といった欲求に合わせて場所を変えるように、すまいもいろいろな事情で組み立て直しができる空間構成でありたい。
これらのリアリティ、実は新しいことではなく、時代に流され無くなりつつある前時代的な部分を必至に引き止めているにすぎないことであると簡単に気づくだろう。
それくらい、今時のすまいは人間らしさや本能をダメにするモノで支配されつつあるということなのだ。

私が考える今の時代を反映した一般解は誰にでも受け入れられるものではない。
家庭毎の特殊解を見いだしながら、前時代的一般解が受け入れられる家庭かどうか探っていく。
このプロセスが、もっとも重要で成否の鍵を握るすまいづくりプロジェクト前半の1/3なのだ。
我々が関わる通常のプロジェクトの場合、第1案ですんなり方向が見えることは少ない。
全くないと言っても過言ではない。
それは、今日的一般解をたっぷりと染み込ませ、家庭毎の特殊解は手探り状態での提案だからなのだ。
しかし、本プロジェクトの場合、第1案でしっかりと方向性が見えた。
ギクシャクした部分をマイナーチェンジして、第2案を提案しても受け付けなかった。
第1案を提案した直後から、プランの中に住み始めてしまったのだ。
うれしい悲鳴だ。
今日的一般解をたっぷり含んだそのプランは、その後2/3のプロジェクトで離陸できるかどうかが決まる。
様々な想いをしっかりと受け止め、現実化してくれる3番目のプロジェクトスタッフを見極める時期に突入した。




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突然ですが、この連載は私の事情で中断致します。
あしからず。
このあとは、完成した「那珂川町。木・風・不入道牧場」をご覧ください。
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