私の建築家志望は、隣のオジサンと父との会話から始まった。

「希人君は、将来何にさせるのかね?」
「これからの世の中は、何がいいんだろうねぇ。」

「これからは、腕に職をつけておいた方がいいかもしれないなぁ。建築家とか、医者とか、パイロットとか。」
「そうかもしれないねぇ。」
「今のうちから考えさせておいた方がいいよ。」
「でもまだ子供だからねぇ。」

確か私が中学校一年生になったばかりの頃だったように思う。
その頃は、まだまだ将来のことなど考えたこともなく、そんな大人の会話を黙って聞いていた。
当時は、そんなことより中間テストや期末テストがやってくるまでの間、いかに遊び続けるか!ということの方が、日々の重要検討事項だったようだ。

しかし、隣のオジサンが言っていた「今のうちから考えさせておいた方がいいよ。」という言葉が頭の片隅に残ってしばらく離れなかった。
『なにになるのかねぇ。僕は...』しばらく考えてみたが今ひとつ実感がわかなかった。

その頃、ラジコンに心を奪われていたので好きなラジコンをいつでもいじれるラジコン屋がいいかもしれないと密かに思ってみたりした。
『僕は、大きくなったらバスの運転手!』と同じレベルである。

また、当時、中学に入って最初の音楽の時間にビバルディの四季を聞かされた。
その新鮮なリズム感とメロディに一発で引き込まれてしまった。
これがきっかけとなり、バロック音楽から古典派までにのめり込んでいった。
その頃、北海道FMでは、朝6:15から”バロック音楽の楽しみ(皆川達夫)”という渋い番組を放送していた。
ビバルディにはまって以来、その番組を布団の中で聞くのが日課となった。
今でも、NHKFMの朝一番のテスト放送用のジングルが当時と同じなので、それを聞くと甘酸っぱいような感触がよみがえってくるのだ。

毎朝布団の中で、指揮者になりたいと夢の中でタクトを振っていた。

そんな日々を送っているある日、私の友人の松山君が体育の授業中に複雑骨折してしまい、緊急入院してしまった。
入院は長期間になることが予想されたため、何か退屈しのぎになるようなものをお見舞いの品として贈ることがその日のホームルームで決まった。

なにを贈るかみんなで検討した。
日頃、大人びていて先端の風俗情報なども知っている松下というやつがいた。
彼には、4つ上のお兄さんがいて、いつもお兄さんから仕入れた話を自慢げに話していた。
 
「ビートルズの赤と青がいいよ。」彼は言った。
『また、兄さん情報か。ちぇっ!』と少しだけうらやましく思った。

しかし、その『びーとるずのあかとあお』っていったいなんだろう?なにやら長髪の外人ロックグループのようだということまでは気がついたのだが、『あかとあお』って?なにかなぁ。

見舞いの贈り物は、なんだかよさそうだ、松下が言っているんだから今はやっているんだろう、というムニャムニャした雰囲気の中、その『あかとあお』に決まった。

そしてどういうわけか、私がそれを買って松山君のお見舞いに行くことになった。
「今日入院したばかりなので、一週間後くらいにお見舞いするように!」といわれながら、みんなから集めたお金を手渡された。

その日のうちに、レコード屋に行った。
『病院だから、レコードよりはカセットの方がいいな。』と勝手に思っているうちにレコード屋についた。
そのとき、その『あかとあお』は、キャンペーン中のようですぐに見つけることができた。お金を払いながら、すこし大人になったような感じがした。

家に帰っても、その包みが気になり、早く一週間がたたないものかとウズウズしていた。
待ちに待った一週間が過ぎた。
放課後、一目散に病院に行った。
「これ、みんなからのお見舞い!聞いて見ようよ!」
松山君の病状を聞くこともせず、中身を見る前から、聞こう聞こうと催促してしまっていた。
「ら〜ぶ、らぶ、みっどぅ、ゆ〜、の〜、あいらぶゅ〜」
初めて聴く曲に聞き惚れてしまった。なんか大人って感じなのである。

松山君は、お兄さんがいるわけではなかったが、ビートルズには詳しかった。
いろいろ教えてくれた。
私はいつまでたっても帰ろうとせず、繰り返し繰り返しカセットを聴いていた。
根負けしたのか、松山君は、そのカセットを私に貸そうと言ってくれた。

「いや〜、そんなのわるいよ〜。」といいながら、すぐに鞄にしまい、「わるいね!わるいね!」といいながら病室をあとにした。
それ以来、ビートルズのとりこになり、バンドを組むようになっていった。


ギターとバンドに明け暮れる中学校生活を送っていた。
三年生にもなると先生は、「将来のことをそろそろ真剣に考えなければなりません。」と日々言うようになった。

『なんになるのかねぇ。僕は...』前にもそんなことを考えたことがあったような気がしていた。
『音楽で飯が食えるといいなぁ。でもピアノが弾けないんじゃ、無理か...でもゲイ大に入れればもしかして...』

『パイロットなんかもいいなぁ。建築家っていうのもいいとどっかのオジサンが言ってたよなぁ...』
『医者もいいといってたけど。血を見るのがいやだからヤメトコ...』

ある日、父にボヤ〜ッとながら将来のことを話してみた。
すると「パイロットになるためにはボーエイ大学、医者になるためにはボーエイイカ大学、建築家になるためにはホッカイドー大学!」ときっぱりと言ってきた。
いつかどこかで聞いた話だ。

私は、よくわからないまま、部屋に戻った。
ギターを片手に「ボーエイ大学、ボーエイイカ大学、ホッカイドー大学、そして、ゲイ大」とぶつぶつ、つぶやいていた。

パイロットは、目が悪いのでだめそうだ。
医者は、血がいやなのでなりたくない。音楽では、飯が食えそうにない。
そうなると前に隣のオジサンが言っていたように建築家しかないのか。

数学と理科が好きで、音楽も好き。となると建築家ってのもいいのかもしれない。

何故か、隣のオジサンの残した言葉から選択範囲を広げることもせず、進路は決まったようなつもりになっていた。

「高校に行くにあたっては、自分の将来を真剣に考えなければなりません。」といわれながら、あまり深くも考えずに、普通高校に入学していた。

相変わらず、バンドは続けていたものの何か物足りなさを感じていた。
学校帰りにふらっと本屋に立ち寄った。
そこには、『POPYE!創刊!700円!』とあった。惹かれるように手に取った。

まぶしいくらいの太陽とそこで繰り広げられているアメリカ西海岸の自由なライフスタイルが目に焼き付いた。
「ほしい!」ポケットをまさぐる。
その月の小遣いは残り230円となっていた。

食い入るように見ていると、一緒にいた増田が2才年上のお兄さんから聞いていたらしく、その辺のアメリカ事情を教えてくれた。

「サーフィンのこと、ピック・アップ・トラックのこと、スケボーのこと、UCLAのこと、リーバイスのこと、エディー・バウアーのこと、アウトドアライフのこと。」聞くだけでクラクラしそうだった。
私は、何かいや〜な予感を感じながら、家に向かって思いっきり自転車をこいでいた。

つづく
平成1995年6月 中潮

あとがき

今の私の根元を流れる基本思想が、発生し育ちつつある時期のことである。
今では、当時のようにのんきに行き当たりばったりの受験というわけにはいかないだろうが、私の時分は、おおらかだった。
北海道の田舎ものだったからかもしれない。

ただ、感謝しているのは、行き当たりばったりの生活を送る息子に対して、こうしなければならないというような親の決めたレールがなかったことである。

隣のオジサンの決めたレールに乗って走りだしてしまったのかもしれないが...。

1999年3月25日

▼ コメントする

▼ サイト内検索                複数キーワードは半角スペースを挿入