1983年。大学4年生。春から夏にかけて就職活動をしていた。
大学生活の前半と中盤はアルバイト、サーフィン、麻雀で終わってしまった。

4月に無事大学4年生になった。
そのころ私の通っていた東京理科大学は、留年せずに卒業することはとても難しいと聞かされていた。
特に私のような学校にも行かず、建築の専門課程にも興味を示さず、ただれた日々を送っていた者には、当然留年のお達しが来るはずだった。
しかし、マス大学の欠点である適当にやっている奴に目が行き届かないという盲点を見事にくぐり抜けてしまい4年生になってしまった。
私は、ところてん的に4年生になってしまったのである。
本音は、強制的に「もー1年やりなさい!」ときっぱりと言ってほしかった。

私の居た東京理科大学は4年生になると研究室に所属することになっていた。
そこで、今までの大学生活の総決算とでもいうべきそれぞれに特別な研究課題に取り組むのだ。
研究先は、各自好きなところを選ぶことになっていた。
やはり、研究室といっても教授という人が経営している学習塾みたいなものであり、人気がある研究室には希望が殺到する。
私が、目を付けたのは、それまで何となく若くてものわかりが良さそうだなぁと思っていたかっこいい講師の研究室だった。
今思うとその先生はなんと今の私と同じ34歳であったのである。
私のように不純な動機のかっこよさで選んでいる学生がたくさんいて、そこは一番人気だった。

たくさんの学生の中から活きの良さそうなヤツを選ぶために面接があった。
「あなたの好きな建築家は誰ですか?」いきなり来た。
「好きな建築家は、誰も居ません。」「・・・・・;」
「私は自分が大好きなので、自分が暮らしたいと思う空間を創りたいと思います!」
「そーか、次っ!」
どういう訳かその研究室にも入ることができてしまった。
結構うれしかった。
研究室に所属するようになって、はじめて自分の居る場所ができたような感じで、大学へは以前より行くようになった。

それまで私は自分で建築学科に所属はしているけれどもその道のことはなにも知らず道をはずれかかっていた。
研究室の中のみんなは、しょっちゅう磯崎新がどうの、安藤忠雄がどうのとわかったような感じで議論していた。
私は、軽いカルチャーショックを感じながらその世界に少しずつ引き込まれていった。
しかし、そのころの関心事はまだまだ海と麻雀だった。
サーフ・ボードにまたがり遠くの波を見つめ大きな波を待っていたり、相手の顔色を横目で見ながら指の腹に感じる雀牌のデザインに命を懸けたりしている方が楽しかった。


5月にもなるとまわりが、面接面接と騒ぎ始め出した。
みんな校舎のまわりの公衆電話で電話をかけているのである。
メモ用紙を見ながら必死に電話をかけていた。

6月にもなるとやはりところてんの4年生としても来年のことが気になってきた。
そろそろやるかという気になってきたところで、自分の歩きたい道がわからない。
「心理学的空間占有に関する研究」というのが自分の研究テーマになっているけれど、9月の提出までに時間があるので全く手を付けていない。
自分の歩きたい道がわからない。
まわりは、磯崎新。安藤忠雄。面接面接。アポアポ。急いでいた。
 
そんな中、大学から帰り自分の部屋で酒を飲んでいた。
酔ってくるとまわりのものにはまりこんでしまう癖があった。
レコードを聴き、英語の歌詞カードを見ながら十分意味もわからないくせに泣けてきたり、テレビドラマにはまって脚本家の思うとおりに大泣きしてしまったり、知らない人が見たらこの人おかしいんじゃないかと思うくらい入り込んでしまう癖があった。

そのときもはまりながらTVドラマを見ていた。
「あ〜あ!」と頬を手で拭ったとたん、ふと始まったコマーシャルがその手を止めた。
のりのいいリズムにパンティが踊っていたのである。
最初はきれいな足しか見えないコマーシャルなのだが最後に画面いっぱいにパンティがたくさん出てくるのである。
「クール・ストラッティン」という足首しか見えないジャズのレコード・ジャケットが大好きだった私としては何者かにとりつかれてしまったように唖然としてしまった。
(スクエアのファースト・アルバム;海辺で後ろ姿の女性のパンティが見えるやつ、もいいねぇ)
なにかいきなり後頭部を殴られてしまったような感じだった。
自分もこんな仕事がしたい!人の心の隙間にぐいっ!と入ってしまって「どうだ!」ってなことができるような仕事。

単純なのである。CMの仕事がしたいと思ってしまった。
それから真剣に就職活動を始めだした。D通、H報堂、その他いろいろ...片っ端から広告代理店とアポを取った。
そうはいうものの、建築関係のところもとりあえずしっかりとアポを取っておいた。

7月にもなるとアポそして面接、アポそして面接の日々が続いた。

8月。
思うようにいかない中で一つ内定がとれた。
それは、とりあえずのアポイントメントとして取っていたある住宅メーカーだった。
まあ、一つ内定がとれたんだからこれからは好きなところを攻め続けられるな。
と、楽観的になり海と雀牌にあつくなっていた。
そのあとの広告代理店攻撃は、D・H続けて3次試験で敢えなく終わり「まー、いいやー」でケリが付いてしまった。
 
9月。そんなわけで、とっても簡単に就職先が決まってしまった。


しかし、そのおかげでまた研究室のカルチャーショックの日々と海と雀牌の生活がまた始まった。
人生とは不思議である。
大学生活も4/5終わったところで少しずつ受け続けてきた建築カルチャーショックがぶくぶくと発酵して大きな勢いになる気配が感じられた。
 
就職して、泣いた。悔しくて泣いた。
本当に泣いたのである。
サラリーマンが嫌で泣いたのではない。
毎日毎日、滅私奉公の毎日が嫌だったんじゃない。
大学生活最後のところで覗いてしまった建築デザインのおもしろさ、奥深さ。
自分を表現する手段である建築デザインの世界への傾倒。

社会に出てから、理想と現実の狭間で頭の中がぐちゃぐちゃになってしまった。

組織と個人というテーマでも悩んだ。
個人でできる可能性は限られている、組織でできる個人の可能性も限られている。
どっちを選ぶのか。
歯車だけにはなりたくなかったが、毎日『おまえは、ハ・グ・ル・マ!』と飼い慣らされていくような感じがなんともいえなくいやだった。
酒を飲んだ。
酒に飲まれた。
会社の同僚は、5月病で出ていく。
いいな、とも思った。
しかし、私には行く道がなかった。
行きたい道は漠然とあったのだが、それはところてんの時とは違う勇気のいる道だった。

考えた末にある決断をした。

つづく    平成7年10月  小潮


あとがき

前回から話が飛躍しているが、その間の2〜3回分は今読むとあまりにも稚拙なので掲載は止めた。
今回は社会に出ることを安易に決めてしまったことの話を掲載した。
社会に出て初めて、自分はどのようにして生きて行くんだろうと実感した。
いや、自分はどういう生き方をしたいのだろうということだったのかもしれない。
まわりをキョロキョロしないで、二本の自分の足で歩いていきたいとも思った。
そのためには、どうしたらいいのかと当時真剣に考えたものである。
いま生き方そのものに迷いや不安はない。(欠点はいっぱいあるものの)
ただ、今のやり方でいつまで生きていけるだろうかという不安はある。
『やっぱり、事務所で鉛筆握って、死んじゃうんだろうな』とある先輩は力弱く笑っていた。
私は、山の中で薪ストーブに心地よくなりながら、夢の中かで静かに人生をおわりたい。
なんて、まだまだ先のことではあるが。
どんどん生きていくのだ。

1999年6月9日 

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