1984年。ある住宅メーカーに就職した。
義務教育を終えて高校、大学へ行くようにあまり深く考えずに就職先を決めた。
そのときはまだまだ前途洋々だったのである。
限りなく広がる社会という世界がいくらでも自分の思うようになると考えていた。


4月1日入社式があった。
住宅メーカーでは日本で1、2を争う企業なので東日本地区だけでも200人くらい新入社員がいたような気がする。
すごく賢くていかにもできそうな奴から、俺にも勝てそうなとろそうな奴までごちゃごちゃたくさん居た。
そんな訳なので、当然のように同じ大学の同級生も何人か混じっていた。しかし、ほとんどのその他大勢は知らない奴ばかりだった。


入社式が終わって、すぐ新入社員研修が始まった。

最初は、新入社員全員でやる研修だった。
営業、総務、技術系みんな一緒の研修なのである。
研修場所にバスで送られて、すぐ全員持ってくるようにいわれていたジャージー・トレパンに着替えさせられた。
研修のお知らせには、スエットやスポーツウエァなどではなくジャージー・トレパンと書かれておりなんだか嫌な感じがするなぁと思っていた。

着替えさせられてすぐに外のグラウンドに集合がかかった。
「時間厳守!じかんげんしゅ!ジカンゲンシュ!」「社会人はジカンゲンシュでなくてはいけません!」学校の先生でもそんなに真剣に子どもに言って聞かせることがないくらいにしつこくまくしたてられた。
今にして思えばその人も給料をもらってやっているのであり、好きでみんなのけつをたたいているのではなかったのだろうなぁと思う。
鳩時計が時報を知らせるように繰り返し繰り返しむなしくしつこく同じことを言っていた。
それでも社会人1日目の我々は、まだ学生時代の怠惰な習慣が抜けていないらしくぐずぐずしながら外のグラウンドに向かっていった。

着いたとたん、「さー!みんなで元気良くー!たいそー!」と元気のいい先輩社員が正面の少し高い台の上で声を上げた。

すると、人気のない四方八方山に囲まれたさわやかな自然の中いっぱいに音楽が流れ始めた。

「大きく広が〜る〜!夢〜!ゆめ〜!ユメ〜!、〜誰でもが願ってる明るい住まい。×○はうす〜!×○ハウス〜!」

すぐにその場から逃げ出したくなってしまった。
こそこそまわりを見渡してみたが逃げ出している奴はいなかった。
逃げ出しているどころかみんなきちんと前を向いてのびたりちぢんだりしていた。

「なんか変だなぁ〜。俺は一生この踊りをおどっていきていくのだろうか。」と心細くなっていた。


その日のうちから具体的な研修が始まった。

名刺の差し出し方や目上の人と応対するときの礼儀などいろいろ教え込まれた。
その中でも特に印象に残った研修は、ロールプレーイングという瞬間劇だった。

家を建てたいというお客さんと家を売りたいというセールスマンになり代わってのにわか漫才みたいなものである。
結構おもしろかった。
得意になってお客の役やセールスマンの役をやった。
「君はなかなか営業のセンスがあるねぇ。」と言われて少しうれしくなりその後の研修も次第におもしろくなっていった。
その研修も1週間ほどで終わった。

その次は、技術系の新入社員だけでやる特別研修が待っていた。

その研修は、そのメーカーの自社工場の一角で行われた。

朝6;30ちょうどにやはり「大きく広が〜る!」でおこされた。
最初の朝は、何事が始まったのかと思った瞬間何とも言えないいや〜な気分になったものだが、不思議とそんなことはだんだん慣れていった。

その研修は建築学科出身の技術系ばかり20人ぐらいのメンバーだった。

大学の成績は中の中位で卒業していたので一応仕切り直しで社会人になったらがんばろうと思っていた私は、結構真剣に研修に取り組んだ。

その研修は2週間ぐらい続いて充実した中で終わりを迎えた。

終わって、その翌週勤務先に戻ると80人ぐらいいる営業所の親分である所長に呼ばれた。

「君はこの営業所が始まって以来の人物だ。」と言われ、「はぁ...」と答えると「技術系の研修では、トップで終了したそうじゃないか。営業所の誇りだよ。その気持ちを忘れずに頑張ってくれたまえ!」とのことだった。
人はほめて育てろと言うことがあるらしいが、まさに私は、その一言でしばらくは、頑張ることができた。


しかし、一生懸命頑張れば頑張るほどになにかが違うのではないかというぼんやりとした疑問が沸いてきていた。

俗に言う新入社員の五月病というやつだったのかもしれない。

自分には、まだまだ限りない可能性があるのではないか。
このまま一企業の歯車としてやっていって悔いはないのだろうか。
一生懸命やっていたからなおさらこの一生懸命さは誰のためなのかという疑問がこみ上げてくるのだった。
自分のためなのか、会社のためなのか。
お客さんのためなのか。

大学4年の時に垣間みてしまった建築の世界は、まさに自分と対峙しながらものを作り上げていく精神的な世界だった。
戻りたいと思った。
自分を表現する手段としての建築行為に未練を感じていた。

しかし、そのときの戻りたいと思う気持ちは、社会という大きなうねりの中で自分の船をこぎ続けることが何となく嫌で、まだまだ学生のままでいたいという甘ったるい気持ちだったように思う。
では!と建築の道をめざすということでもなく悶々とした日々を過ごしていた。

勤務先での毎日は、多くの先輩からいろいろなことを教わることが多く表面的には充実していた。

「会社なんて社員のことなんかよりも会社の業績が上がることの方が大事なんだからそんなに一生懸命やっても無駄だよ。」

「おまえ、適当に息を抜かないと、会社につぶされてしまうぞ。」

「上司にはハイハイって言っておけばいいんだよ。」
というネガティブな教育的助言。

「絶対、誰かがどこかで見ているから適当にやっちゃダメだぞ」

「俺は、先輩だからおまえにおごってやるけど、おまえも後輩にはその分きちんと面倒見てやらないとダメだぞ。」

「今、誰のために仕事をしているかしっかり見極めることが大事だぞ。」
といった人生教訓的な助言。
それらは、それぞれ血となり肉となっていった。

しかし、誰のために仕事をしているのか見極めろと言っていた先輩は、上司のごきげんを取ることがとってもうまく、上司の方を向いて仕事をしていた。
全体的には、会社員とはそんなものなのかと失望してしまうくらい夢のないことが多すぎた。

住宅建築に携わっている企業に属していた私だったが、会社員とは何ぞやということ以外に会社から得られる建築的な刺激はほとんどなかった。

五月病が治りきらないまましばらく悶々としていた。
酒を飲んでは、このままでいいのかという思いに悩まされた。

自分としては、何のために仕事をするのかということも疑問だった。
自分のためなのか、家族のためなのか、会社のためなのか、お客様のためなのか。
良くわからなかった。
ただし、良くわからないなりにも会社や上司のためにだけは仕事をする気にはなれなかった。
何となく自分のためと言うよりは、お客さんのために仕事をしていると思った方がやる気が出た。


会社のために仕事をしているのではないと思うようにした。
私は、9;00始業なのだから9;00に間に合うように出社し始めた。
というのは、その営業所では、慣例的に8;00には全員出社していて8;30にはてきぱきと仕事を始めていた。
早起きは、三文の得とあるようにそれはそれでよいと思うのだが、それは自ら率先してやることであり会社の慣例だからそうするというのは納得いかなくて就業規則通りわざと9;00ぎりぎりに行くようにした。

案の定、先輩社員からの風当たりは次第に強くなった。
「おまえなぁ、俺より遅く来るなんて10年早いよ。」とか「明日の朝、8;00までにこの書類をコピーしておくように。」とかあからさまに私の行動に嫌がらせをしてきた。

しかし、私としては勤務中は一生懸命仕事をしているという自負があったので気にせず頑固に毎日一番遅く出勤していた。
そんな私だったのでいつしか誰も文句を言わないようになっていった。
ある日、2年先輩ではあるが同じ歳の人から「いいよなぁ。佐山は。いつも遅く来ても誰にも文句を言われないんだから。」と言われ、ニヤッとしていた。

その年の夏休みに一週間ぐらい休んだあと、出勤するのがいやになってしまった。
続けても企業の中で泳ぎわたる処世術しか身につけられないと思ったのである。
おおいに悩んで出した結論は、このまま社会人として生きていくのであれば長期の職業人としての戦略を立てようということだった。

今やっていることは、無駄にはしたくない。
しかし、このまま終わりたくない。
であればここで吸収できるものは徹底的に吸収して次のステップアップの材料にしよう。
石の上にも3年。
この会社には3年は居よう。
そしてそれを財産に転職しようと思ったのである。
サラリーマンとは何ぞやという財産は貴重な財産になると自身に言い聞かせた。

20代は3回転職して3種類の経験を徹底的に吸収する。
30代は落ちついて建築の世界に身を置く。
でもまだ若輩なので30代は積極的に吸収しつつ、吐き出す日々にする。
40代はじっくりと建築と向き合いながら職能を発揮する。
そしてそこまで一生懸命走り続けて50を迎えたら山の中に入り込み、自分の求めるものに集中したいと職業人生を組み立てた。

20代は修行、30代は修行と貢献、40代は貢献、50代は何もしない。
そう考えるようになって、そのときやっていることの意味を自分なりに納得させることができて、悶々とした日々から抜け出していった。

30代中盤の今現在は、予定通りにはいかずに修行と貢献というよりは修行修行に終始している毎日である。
人生とはなかなか思う通りにいかないものであるが、何とか50代には自然の中で悠々自適に建築とマダイに取り組んでいたいものである。

平成7年11月    小潮

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