このエッセイも、はや8回目を迎えた。
いつも締め切りは、月末の25日と決められている。
この25日がなかなか守れない。
守ったのは、最初の第一回目の時だけだった。
そのときは気合いが入っていた。
「佐山さん頼むよ。」と約一年ぐらい前に言われたときから何を書こうかと考えていたのだから、それはもう気合いが入っていたのである。
しかし、2回目以降は書いてほっとしたとたんにすぐ25日がやってくるので困っているのである。
サラリーマン時代は、25日の給料日が待ち遠しくて今か今かと財布の中身と相談していたものだったが、そのときとは時間の進み方が違うようだ。
という言い訳じみたことを書いてしまったが、今はもう既に1996年を迎えてしまっているのだ。
(編集部の茅原さん関係者各位殿いつも遅れてすみません。)
これが発行されている頃はもう2月になりかかろうとしている頃なので読んでいる方は、何を今更と思うだろうが、まあ元日に戻ったような気で読んでいただきたい。
大学生から社会人になって間もない頃「もうこのままずっと働き続けなければならないのだろうか」と心の中でじたばたしていた。
前回のエッセイに書いたことだが、一生大きな企業の歯車として忠誠を尽くすのもなんとなくいやだった。
そんなわがままな状況で自分を納得させることができたのが、職業人としての目標だった。
20代は修行、30代は修行と貢献、40代は貢献、50代は何もしない。
悶々としている状況の中で、もがき苦しみながら出した結論だった。
苦しみ抜いて出した結論だったおかげで、今でも忘れずに心の引き出しにどっかと居座っている。
社会人3年生にもなった頃、この結論とも目標とも夢とも言えない計画を誰かに話してみたくて大学時代所属していた研究室の初見学先生を訪ねてみた。
「私は、20代は何をやっても修業の時代だと思うんです。ですから、建築を職業として選んだ以上は、20代のうちにしっかり修行をしておきたいと思っています。」
「........」
「そのために30歳を迎えるころまで少なくとも3年ずつ3つの企業で職能を吸収し、手の内の駒を増やしたいと思っているのです。そして30歳以降はじっくりと建築に取り組みたいと思っています。」
「........」
「そして、50歳で現役を引退し、山の中に入り悠々自適に生活を楽しみたいと思っています。」
「う〜ん.....君らしいな!」
「ただし、3年ずつ3回修行というのはどうかな?人間年齢とともに記憶力も吸収力も衰えていくものだから3年5年7年、いや3年7年11年の修行かもしれないな。」と久しぶりの酒を酌み交わしつつアドバイスを受けた。
なるほどなとは思ったものの、3年7年11年だとすると修行のまま50歳になってしまい、自分の立てた計画からはずれてしまうのである。
やはり、50歳からは自然の中で遊んで暮らしたいと思ったのである。
そんな会話から8年後の一昨年のことである。
また、初見先生と久しぶりに飲む機会があった。
「どうしてる。」「いや〜、人生いろいろありますね。」と照れながら近況を報告した。
それまでの仕事のこと、家庭のこと(私の一回目の結婚の媒酌人だったのである。)などなど。
そして、「設計事務所を葉山に構えることにしました。」と報告する。
「う〜ん、そうか.......やられたな。」
「えっ!なんですかそれは。」
「いやね、ぼくもいつか海に向かって開放された書斎で仕事をしたいと思っているんだよ。海に向いた5、6mぐらいはある長い机の上にいくつものやりかけの仕事をそれぞれに置いて、必要に応じて場所を移動するだけで違う仕事ができるような環境をつくりたいと思っているんだよ。」
「やればいいじゃないですか。」
「いま、少しずつ準備をしているんだが、先を越されてしまったな。ははは」私の尊敬する初見先生は、かつて東大のヨット部に所属していて私の事務所のある一色海岸あたりは若い頃よく通っていたということで、大変うらやましそうにしていたのである。
よく考えてみると私は、大学卒業後最初の企業で3年、次の企業で7年半、そして今に至っているわけで奇しくも初見先生が言っていた3年7年11年の軌道に乗ってしまっているのである。
その言葉を気にしていたわけではなかった。
たまたま、2つ目の修行場だった企業が、とても面白くいろいろな修行ができたのでついつい長居してしまっただけだったのだが。
そして、3つ目の修行場は自分でつくってしまった。
さらに、50歳になったら自然の中でというのが待ちきれず職業計画とは別にもう既に自然の近場で暮らし始めている。
計画は、どんどん狂っていっているけれど目標にはどんどん近づいていっている。
やはり、自分がやりたいこと、したいこと、をはっきりさせることは有意義なことのようだ。
それもより具体的に、よりビジュアルにイメージすることが良いようだ。
私が、3年前に企業人から職業人(簡単に言うと企業人とは職能を企業に求める人、職業人とは職能を仕事に求める人。)に転向したときも、節目として職業人としての初心を整理してみた。
それは、建築設計を生業とする職業人として個のキャラクターをさらけ出し、「こんな自分だが私はこう考える」というものになった。
1;私は、いろいろな生活が大好きです。生活は訓読みで「いきいき」と読みます。
いきいきとした生活のための空間をつくりたいと考えます。
そのためにまずは自分の生活を楽しむことを努力したいと考えます。
2;私は田舎が大好きです。
自然と共棲しながら無理なく生活を営むことができる田舎が大好きなのです。
3;私は釣りが大好きです。
一日無心になって外で遊び、嫌なことは全部忘れることができるからです。
4;私はお酒が大好きです。
使い方にもよりますが、イメージトレーニング、コミュニケーションツールとしては有効です。
5;私は楽天家です。
信念を持って「なんとかなるさ」で頑張ることが信条です。
6;私は地球と仲良くつきあっていきたいと思っています。
人間を含めた生物の健康と地球の健康を新しいやり方で模索していきたいと思っています。
7;私は施主と社会の利益を守り発展させることが職能と考えます。
音楽家は聞く人に夢と希望を与えます。
小説家は人間とはなにかを訴えます。
冒険家は人間の限界と勇気を教えてくれます。
皆、生きざまをさらけ出して訴えてきます。
建築家も自分の生きざまや生活をもって人間と地球の豊かさを追求し、施主と社会の財産を守り発展させていくことが職能であると考えます。
生涯の目標、10年スパンぐらいの中期の目標、1年ごとの目標、月間目標、週間目標、その日の目標。
スパンが短くなればなるほど、現実的で処理しなければならないことに近い意味になる。
生涯の目標や中期的な目標があって日々の目的も見えてくるような気がする。
また、長期の目標がより具体的であればあるほど現実になる確率が高くなるとも思う。
と言うわけで私も1996年を迎え今年の目標を立ててみた。
それは、「頑張らない!」という目標である。
これは新聞に載った丸紅の鳥海社長の年頭の挨拶から拝借したのだが、「頑張ろうと思うと本来まじめな日本人はプレッシャーがかかり、かえって実力を発揮できない場合が多い。あなた方は、プロなのだから自分の仕事をエンジョイしながらやりなさい。」ということらしい。
昨年、私もふとそう感じるときが頻繁にあった。
スケジュールが迫ってきてやらなければならないことが重なってくると本来の仕事の意味が見えなくなってしまい、ついつい処理することに終始し始めるのである。
どんどん視野が狭くなり、愚痴が多くなり、自分の無能さが気になり出すのである。
そんな時はもう生涯の目標や生活を楽しむことなど忘れてしまっている場合が多い。
楽しんでいないのである。
それは、きっと仕事にも現れているのだろうと思うと依頼主に申し訳ない気持ちでいっぱいになってくる。
そんな時は、海に出て頭を上げて遠くを見るようにした。
本当に忙しいときは、歩いて1分ぐらいの海にも出なくなってしまう。
心に余裕がなくなっているのである。
これでは、生活の豊かさを演出する職業人としては失格なのである。
海に出て本当に頭を上げて遠くを見ていると職業人としての初心に戻れるのである。
そして、処理するのではなく、楽しむことに専念できるようになるのである。
そんなことを経験していたので先の年頭の挨拶が、身に沁みて感じることができた。
だから1996年の目標は「頑張らない!」なのである。
平成8年1月 若潮
あとがき
建築設計って、50をすぎた頃から油が乗り出すらしい。
それまでは、甘ちゃんで青二才らしい。
大御所、丹下健三も50半ばで独立したように記憶している。
矢沢永吉も今年50になるそうだ。
わが青春のキャロルの親分も50になるらしい。
50のロックンローラーに新たな闘志をかいま見た。
自分ラシサを追求することに年令はないらしい。
サクセスを手に入れたくて走り続けた27年ばかり。
実際サクセスを手に入れた今では「自分ラシサ」を求めているという。
そのために日本ではじめての50才ロックンローラーをやり続けるのだという。
私も50になるのが待ち遠しい。
いっぱい経験や知恵を蓄えて、脂ののりきった建築設計をしてみたい。
そのためにはしっかり走り続けていき、認められることが大前提らしい。
しっかり走り続けることは今やっている。
大事なのは、生活者をしっかりやることだろう。
自分と家族と地域と地球に忠実にウソ偽りなくやることが。
平成11年8月15日
小潮
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