1986年、社会人になって4年目。
石の上にも3年たった。
社会人1年生の頃は、つらく長い日々と感じただけだったが、2年目、3年目の頃は、つらい中でも仕事のおもしろさが少しだけわかりかけてきていた。
そして知らず知らずの内に多くのことを学んでいった。
その住宅メーカーで最初に担当した仕事は、現場監理であった。6カ月程度の新入社員研修の後、いきなり3棟の現場を任された。
正直なところ、現場に出ても全てが初体験で何をどうしてよいのやらさっぱりわからなかった。
先輩社員の様子をうかがいながら見よう見まねで何とかしのいでいた。
わからないことだらけだったので、お客に会うのがとてもこわかった。
現場でいろいろなことを聞かれる。
わかった振りで乗り切れることなら何とかごまかせるが、わからないことは「後で調べてご連絡します。」と言うのが精いっぱいだった。
そんな中、やっぱりお客の感情が爆発した。
知らないことだらけで何とか乗り切って、1件の住宅を引き渡す日が来た。
出来上がった住宅の中で、竣工検査や書類の受け渡しなどの儀式を行っている最中、お客の顔が青ざめたのである。
そして、突然しくしく泣き出した。
今でも鮮明に覚えている。
40歳ぐらいの公務員のかただった。
大の大人が突然泣き出したのである。
びっくりした。
「自分は、家を建てるのが初めてである。お宅のような一流企業だから大丈夫だと思っていたけども、やっぱり担当者を換えてもらえばよかった。」と言いだした。
担当者とは、私のことである。
何故、急にそんなことを言い出すのかと内心首をかしげていた。
「最終打ち合わせの時に頼んでおいたコンセントが3つ付いていない。」と言うのである。
そばにいた営業担当は「すぐに追加工事としてやらせますから、大丈夫です。」とあわててその場をとりつくろうとしたが、一度切れたお客の感情はなかなかすぐには戻らない。
公務員として少ない給料をため続けてやっと家を建てるにいたった苦労話をしばらく聞かされた。
私は、その3つのコンセントは壁の下地の中に埋め込まれているのをチェックしていた。
ただ、壁の表面に器具として付けるのを忘れていただけなのである。
しかし、監理不行き届きで最終チェックを怠ってしまった私のミスであることには変わりなかった。
私は、申し訳ない気持ちでいっぱいになり、黙って下を向いていた。
この事件は、学生気分のまだ残っていた私の気持ちにカツを入れてくれた。
こちらにとっては、数ある中の一つの現場でしかないが、お客様にとっては一生に一度あるかないかの大事業なのである。
頭ではわかっているつもりだったが、初めて身をもって知らされた。
また、青二才の1年生でも給料をもらってやっている以上、プロとして仕事に望まなければならないことも学んだ。
それは、現場で大工がトントンやっているそばで図面の通り施工されているかチェックしていた時だった。
その日、「おはようございます。」と声をかけて現場に入っていったのだが、大工は新米の私には目もくれずトントンとやっていた。
「ふん、おまえなんかよりずっと長いこと現場でやっているんだ。指示なんか受けるもんか!チェッ!」とでも言いたそうにその大工は私のことを知ってて知らん顔していた。
大工の気を曲げるとやっかいになりそうだと思い、愛想を振りまきながら図面と現場を見比べていた。
その時、一つの窓が気になった。窓がどうもまっすぐ付いていないような気がしたのである。
「親父さん、私の見間違いかもしれないけど、この窓まっすぐに付いていないような気がするのだけどなぁ.....」
「まっすぐだよ!」
「う〜ん......」
「まっすぐだってば!」
「う〜ん.....そうかなぁ」
その親父は、それ以上めんどくさそうにして取り合うのを露骨に嫌っていた。
しかたなく「水糸を垂らしてみるよ。」と言って、知らん顔している親父を横目に窓の上部から水糸を垂らした。
1・50・ぐらいある窓の下端で1・窓が傾いていた。
「親父さん、鉛筆の芯一本狂っていたから後で見ておいてくれない?」
「そうか、鉛筆の芯一本か。う〜ん......あんたみたいな人は初めてだ。鉛筆の芯一本の狂いを指摘するのは。」
その瞬間から、その親父の私に対する態度ががらっと変わった。
他の監督は、そのくらいの狂いは見てみない振りをするのだそうだ。
まあ大勢に影響はないから問題ないのだが、そこまでチェックするのは珍しいとのことだった。
後から考えると、その親父はそのくらいの狂いはわかっていて、私を試したのかもしれない。
なぜなら、その親父の試験にパスしたためか、それ以来、新米の私の指摘でも快く引き受けてくれるようになり、その親父さんの現場はスムーズに運ぶようになっていったからである。
その時、新米であることに気後れして追求していなかったら、その後もずっと相手にしてもらえなかったかもしれない。
現場監理を約1年担当したあたりで、なぜか私に営業的センスがあると感じた上司は私を営業の部署に推薦したため、営業をやることになった。
目標ではあと1年ほどで次の修行の場に出る(転職)予定でいたので、できるだけいろいろ経験しておくことも必要だと思い人事異動に素直に応じた。
結構、面白かった。
私の所属した課の上司は、殴る蹴るの体育会的きびしさで有名だったが、営業のセンスは職人芸だった。
その上司は、私が営業とは畑違いの建築出身だったためか他の課員とは違い手とり足とり営業の極意を指導してくれた。
「客の真意は、話していることと反対だと思え。」といつも言われた。
つまり、「いいわねぇ」と言われたら「いいけれども、もっといいのがあるのよ」と解釈する。
「今すぐじゃないからまた今度にしてくれる。」と言う客に限って、他の業者と商談している場合が多く、言葉を鵜呑みにしてしばらくしていくと「いや、もう決めちゃったから」なんてことになるものだと教えられた。
また、「質問には質問で答えろ。」とも指導された。
たとえば、「おたくは高いんじゃないの?」には、高くない説明をする前に「どのくらいで検討されているのですか?」と切り返し、「まだはっきりしていないから。」には、「いつ頃のご予定ですか?」とにかく考えつく限りの質問で会話を進めていくと相手の本音がぽろりと出てくるということである。
人間関係ができていない初対面の頃に激しくそれをやると怒鳴られることもあるが、人間関係ができてくると結構本音が聞き出せるものだと感心していた。
これは、テクニックであると思った。
設計畑では、教えてもらえない営業のテクニックである。
他にもいろいろなテクニックがあって、他では得難い私の貴重な財産になっている。
また、その営業所では、営業がお客様と折衝するために営業が自分で住宅のプランをつくることになっていた。
当然私は、建築出身なので得意とするところであるが、私の上司はその道20年も歩んできた芸人なのでプランをつくる上でも学ぶことが多かった。
プランをつくる上で特に感心したのは、建築予定地を調査しに行ったときである。
技術系の社員と一緒に行って平板測量をやるのであるが、測量が終わって技術系社員が道具を片づけている時にプカ〜ッとたばこをくゆらせながら敷地の真ん中で目をつぶっているのである。
測量が終わっているのでもう調査は済んでいるはずなのだが、動こうとしないのである。
しばらくしておもむろに近隣一帯をネズミのように短い手足をめいっぱい動かしながらちょこちょこ動き回り調べ始めた。
呆気にとられて黙ってみていた。
その課長と現地調査に行くといつもそうするので、何度目かの時に聞いてみた。
「プランは、机の上でするものじゃないよ。」と言われた。
つまり、敷地の真ん中にたって、頭の中でプランを検討し、その家の中で生活している様子を頭の中でシミュレーションするのだそうだ。
その時に、風の流れや聞こえてくる音にも神経を集中するのだそうだ。
そして、敷地から見えるもの近隣から見える敷地の様子をちょこちょこ動き回りチェックするのだそうだ。
圧巻は、近隣を動き回り、その筋の人がいないかどうかというのも忘れずに見て回るとのことだった。
その筋の人がいると工事中にトラブル可能性があるので慎重に予算を組まなければならないというのである。絶対に学校では教えてくれない職人技である。
学ぶことが多く、社会経験的には充実した日々を送っていた。
そして、石の上にも3年目の日々が過ぎた頃、いよいよ転職先を具体的に検討し始めた。
3年所属したその企業では、収入はそこそこよかったが、仕事の質と職場環境に疑問を感じていた。
私は、働く環境の要素は、大きく3つに分けて考えることにしている。
仕事の質・職場環境・収入の3つである。
質とは、言うまでもなくやっている仕事内容であり、自分の目標に近づくことのできるクオリティを有しているかどうかということ。
職場環境とは、人間関係、企業慣習などの点で自分がのびのびと仕事できる環境かどうかということ。
収入は、その年齢に見合った収入が得られるかどうかということ。
これらの3要素が整いさえすれば、今でも自分が経営者であろうが、サラリーマンであろうがどちらでもかまわないと思っている。
逆に3つとも揃わないようであれば、迷わず転職・転業した方がよい。
そんな中ではよい仕事などできるはずがないからである。
その時は、全てにおいて満足できる状況に身を置くことは理想であるが、ある程度割り切って、全てを望まないことにした。
3つの内ひとつだけでは長続きしないと思ったので、最低2つを満足させられる修業先を探すことにした。
収入で前企業を上回ることのできる企業はなさそうだったので、迷わず質と職場環境で転職先を探すことにした。
そうして、私の転職先探し大作戦が始まった。
つづく
平成8年 2月 中潮
あとがき
若い頃の苦労はかってでもしろとよくいう。
あとからいい意味で肥やしになるのである。
社会人成り立ての頃はつらくてつらくて仕方がなかった。
自分の歩く道ではないといううぬぼれた思いが強いため苦しんだ。
今となっては、いい経験をさせてもらったと思っている。
はなしの中にでてくるY課長は今では偉くなり営業所長をやっていると聞く。
今でも強烈な個性を発揮しているであろうが、当時はとても強烈だった。
しかし、新年の挨拶に課員と家に行くと子煩悩なお父さんで会社にいるときとは違う人間に思えた。
ただ、そのかわいいおぼっちゃまが、大きな声で「おおきく〜ひろが〜る、ゆめ〜ゆめ〜ゆめ〜」と歌うのにはまいった。
やはり、生きる水が違うとひそかに思ってしまった。
また、その会社の男性社員は毎日とても遅くまで働いているので、晩御飯を家族と食べないのだ。
その後、いろいろと社会経験を積むうち、上場企業はそういうものなのだと知った。
晩御飯は家族で食べるものという環境で育った私は理解できなかった。
そんななんやかんやで転職を真剣に考えるようになっていったのである。
1999.11.02
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