前回のエッセイは転職大作戦が始まったところで「つづく」だったが、今回はその続きではなくて勝手に近況報告に変更してしまうのであしからず。
ただし、それよりもたぶん面白い話になりそうなのでここで止めずに読んでみていただきたい。
このエッセイは風に吹かれるようにテーマも何もなくただその時思うことを書こうと決めたエッセイなのでこれでいいのだと勝手に私は思っている。
従って、誰も止めることはできないのである。それでいいのだ。


私は、平成5年4月に今の会社を設立した。
さかのぼると平成4年10月に前職のT社を辞めた。
T社を辞めたきっかけは、それはもう単純明快、動機不純、それでいいのかと普通の人であれば思うくらいちょっとしたきっかけだった。

T社に勤めいてたその頃、「自分の顔で仕事がしてみたい」とか「一生懸命やればやるほど自分が豊かになっていくより会社が豊かになっていくのではないか」と日々思い始めていた。
その悶々とした思いは、電車に乗り、人の波に飲まれていく毎日で次第に大きくなっていった。

「T社を辞めて、自分の顔で仕事がしてみたいな。」
「いつまでこの納得のいかない繰り返しを続けるんだろう?」
「このままでいいんだろうか?」
とぐずぐずしているときになんとまあリストラがあったのである。

その時、実はリストラがないまま退職しても退職金で返済しきれないほどの借金を会社にしていたのである。
朗報だった。
計算するとリストラの波に乗り会社を辞めると借金を返済できるどころか、かなりのおつりが来るらしいことがわかった。

そうなるとイケ!イケ!である。
元来、楽天的な私としてはもうそれだけでモーゼのジュッカイのように未来への道が開けたような気がしてしまっていたのである。
すぐに手を挙げていた。
でも、そのあとどのようにして生計を立てて行くかの見通しはな〜んにも考えていなかった。それよりも借金を返済してなおかつおつりが来るというプラスからのスタートということが精神的に大きな支えとなっていた。

しかし、そのプラスもすぐに底をつくのは目に見えていた。
どうせ無くなるものなら、形にしておきたいと全財産を持って秋葉原を歩いていた。
今から3年前である。財布に入りきれないぐらいの万札を持って、マッキントッシュを買いに行ったのである。

平成4年の暮れだった。
もうすでに街は年末商戦真っ盛りでみんなギラギラしながらパソコンをあさっていた。
気後れしながらもこのチャンス(お金を持っているチャンスという意味)を逃すものかという意気込みでわけも分からず秋葉原を歩いていた。
その時点で自分が納得できるマックに出会えたような気がしたので迷うこともなく全財産をはたいて意気揚々として家路についた。

年賀状をつくってみたいと思ったのでそれからすぐに格闘したが、年が明けて3日になっても思うようにいかないのでその年はイモバンでことを済ませることにしてしまった。
それはそれでいいのである、年賀状をつくりたくてマックを買ったのではないのであるから。

しかし、そんな無謀とも言える投資をしたおかげで今ではしっかりとマルチメディアの恩恵を受けることができているのである。
ちなみに私の事務所には製図板がひとつもないのである。
そのかわりにマックが3台常にフル稼働している。
来月からはもう1台増えて4台のマックでデザインに格闘することになっている。


話は戻るが、会社を辞めてしばらく失業保険をもらう身に身をゆだねていた。
その期間、私は定職についてはいけないのである。
職安からきつくそう言われていた。
仕事をしてはいけないことをいいことに自ら仕事に就かなかった。
(企業に就職しないということであるが.......)

それは、楽しかった。
定職についていないのである。
朝、9時までに決まったところに働きに行く必要もなかったうえに、サラリーマンのように決まったときに給料のごとく失業保険がもらえるのである。
それはもういいことずくめだった。
毎日、思うがままに日々を過ごし、思う存分人間らしさを充電していた。
知りたいことがあれば、一日中図書館に行き、白菜が豊作だと知れば漬け物を漬け、あそこに温泉ができたと知ればそこに行き、雨ニモマケズ、風ニモマケズ状態だったのである。

その期間は、約6カ月だった。
6カ月もそのような状態がつづくともう元には戻れないのである。
本来の人間に戻ったしまったのである。もう11年間続けた企業人には戻れないことを確信していた。
「そんじゃあ、人間らしく生きながら自分の顔で仕事をしていこう!」と会社を創ることにしてしまった。
会社を創るといっても最初から仕事なんて来るかどうかさっぱりわからなかった。
社員は私一人だった。
自分の喰う分だけだったら何とかなるような気がしていたのでさっさと創ってしまった。

本社所在地は、いろいろ検討した結果、自然が豊富な田舎で、都心にも気軽に出かけられ、ある程度の文化的な香りのするところという基準で現在の神奈川県葉山町を選んだ。
というのは建て前で本音は、いつでも釣りに出かけられるところが第一条件だったので葉山に決めたのである。

案の定、創立した当初は仕事なんてほとんどなく、毎日毎日夕方になると近くのポイントに竿を持って出かけていた。
将来の不安は多少あったが、そのうち忙しくなったらこんなことはしていられないんだと思い、せっせと磯場に通っていた。
(おかげさまで、いまではほとんど釣りに出かける余裕もなく日々を忙しく消化しているだけなのだが。)

創業2年目の昨年の夏、「鬼退治に私も連れていってください。アルバイトでも結構です。」という青年が突如現れた。
その時たまたま締め切りが目前に迫っている物件がいくつかあり、猫の手も借りたい状況だったので「マックを使って図面を描けるのであれば、一緒に鬼退治に行こう。」と私は答えた。
「パソコンは使ったことがありませんが、使ってみたいと思っています。」
「であれば、マックを一式そろえて自宅に置いて自分で特訓する覚悟があるのなら考えよう。」
「わかりました。すぐにそろえてお供したいと思います。」と言うわけでアルバイトながら一人社員が増えることになった。

そうこうしている内に二人だけでは、いくらやってもこなせなくなる様な状況になってきたので「きび団子はいっぱいあげられないけれども俺と一緒に鬼退治に行ってくれないか。」とT社の元部下に声をかけた。
「考えてみます。」と言って6カ月ほどが過ぎた。
「鬼退治には、お供がたくさん必要です。いずれたくさんのお供を引き連れて鬼退治にいけるように頑張りますので私にもお供させてください。」という返事が返ってきた。
「よし、それでは3人で力を合わせて鬼退治に行こう!」ということになった。
しかし、本社である事務所は、社長、兼雑用係、兼運転手である私の一人仕様になっていたので、社員規模拡大による本社移転の必要に迫られたのであった。


半年ぐらい前から、そんなことを予測していたのでひまを見つけては物件をあさっていた。
葉山に本社を決めたときのように自分なりに納得のいく基準を設けていた。中途半端なところで妥協することだけはしたくなかった。
移転先は、やはり葉山近辺で自然が豊富なところ、海のすぐそばか、山の中のどちらか。
普通のオフィスビルのような箱はダメ、わらぶき屋根の民家か、歴史のある一軒家。
一般的な本社の移転先を決める基準とはまるで違うと思うが、それが自分らしさなのだと思い込み探して歩いた。

思いのほか、葉山近辺はそんな不思議な基準を満たす物件がぞろぞろあるのである。
しかし、不動産屋にはなかなか出てこない。自分の足で探すしかないのである。
江戸時代の徳川藩の屋敷跡、化け猫で有名な鍋島藩の屋敷跡(本当に大きな古井戸があるのである)、
帝国ホテルを設計した有名なアメリカの建築家ライトの弟子が設計した住宅。
アントニン・レーモンドという日本の建築史に残る著名な建築家が設計した別荘。
売り物件が多いが、よだれのでそうな物件がぞろぞろあった。

なかでも圧巻は、葉山の御用邸を後ろにしながら山道を上がっていくとあるログハウス群が私の心をとらえてはなさなかった。
ログハウス群とは言ってもそのオーナーが自分の手で時間をかけてつくりあげた質素な建物群なのであるが、そこから見えるパノラミックな眺望が何ともすばらしいのである。
御用邸の前の国道からものの10分程の山の中腹にへばりつくその敷地は私にとってこの上もない楽園に見えた。
しかも、全て自分の手作りで仕上げたであろうと思われるその楽園は私のめざす生き方の手本になっているように感じられた。
あえて例えるならば「大草原の小さな家」の葉山版である。

物件探しがてら散歩している途中で偶然見つけてしまったその「大草原の小さな家」は、寝てもさめても私の脳裏に焼き付いたまま離れることがなかった。
そうこうしている内にいよいよ真剣に本社移転を検討しなければならない時期がやってきた。
いろいろ他にも検討していたが、どうしてもその「大草原の小さな家」が気になり、ダメでもともと直接オーナーにアタックしてみることにした。
突然の訪問で不信がられないように正装で決め込み、山道を上がっていった。
そして自分のことを正しく理解してもらえるようにと会社と個人のプロフィールもしっかりと持っていった。

どきどきしながらチャイムを鳴らした。
「ピンポン〜」
「ハ〜イ!」......「ん?」
「ナンデスカ?」......「ん?」
帽子をかぶり、赤いチェックのシャツにジーパン姿のまるで絵に描いたようなアメリカ人のおじいちゃんが出てきたのである。
「ここの場所がとても気に入りました。よろしければ私に貸してもらえないでしょうか。」
「考えていません。前に他人に貸したときにうまく行かなかったので可能性はないでしょう。」といわれてしまった。
まあ断られてもしかたないと思っていたのでさほどがっかりもせず、「まあ私のプロフィールでも時間があったら読んでみてください。」と用意してあったものを手渡し、やっぱりダメだったかと山を下りた。

まあ、やるだけやったので後悔はしていなかった。
しょうがない、次を探すかと思っていた矢先、訪問してから1週間ほどたってそのおじいちゃんから電話があった。
一軒貸してもいいと思う小屋があるので見に来ないかという電話だった。
いくらで貸してくれるかわからなかったので不安はあったがとにかく行ってみることにした。
電話を切るとすぐ、ににたにたしながら山道をかけのぼっていた。
おじいちゃんからその小屋の説明を聞きながら、ますますそのロケーションの虜になってしまっていた。

さらににたにたしながら、条件を確認したところこちらの思っていた条件よりもかなりよい条件が提示された。
足元を見られないようにせねばと思い「きっ!」としていたつもりだったが、顔はにたにた、でれでれ状態でしっかりとコーヒーをごちそうになっていた。

前々回の本誌にも書いたことだが、思いを強く持ち、それを実現するためには何をするべきか真剣に考えかつ行動すると本当に実現するようである。
そんなわけで、3月に本社移転をすることになった。
それは、自分らしさ、社風、ライフスタイルをみごとに表現できる場所への移転なので今からとても楽しみである。
一緒に鬼退治に行く他の二人もそれはもうとても楽しみにしてくれている。
なぜならば、富士山、江ノ島、大島、湘南の海原が事務所から一望なので最高の職場環境だからである。
このエッセイを読んで是非一度訪ねてみたいと思った方は、いつでも来ていただきたい。仕事のことなんか忘れて、自然を一緒に楽しみましょう。
そして、一緒に自分らしさとはなにかを考えましょう。では。

平成8年 3月 中潮


あとがき

創業当初の仕事を増やし何でもかんでも突き進むことが目的の時期の話しである。
今から五年ほど前になる。
当時は、真剣に千人ぐらい社員がいる設計事務所にしようと考えていた。
その後7人ほどにまで増やしていったのだが、その時点で仕事と私の性格から社員を増やすことにメリットを感じなくなっていった。

私は、本エッセイにあるように会社の看板で仕事をするのではなく、自分の能力やノウハウで仕事をしていきたいという思いからサラリーマンをやめたのである。
社員を7人程にしたときに、仕事と社員を増やすことは、私の顔で仕事をしていきたいという初心がどんどん薄れていくことにつながることに気がついた。
そして、以前私がいやと感じた、滅私状態で私の顔を維持することを社員に強要するのもどうかと思い始めたのだ。
それで、社員が卒業していくことを拒まず、増やすこともせず今に至っている。
独立してから7年目を迎える今、初心に戻り最小単位に戻り、SOHO (Small office ,Home Office)と決め込んだ。

夢のような「海一望、山の中」のログハウス・オフィスは、平成7年から平成11年春まで、計4年ほど住み着いていた。
本分に出てくるアメリカ人のおじいさんは、顔を合わせると決まって「ショウバイ、ドウ?」と聞いてきたものだ。
彼も50年近く、商売をやりながら、ログハウスを造ったり、いろいろなことをしてきている。
生き方や考え方などは、やはり私の大先生だったのである。
多くのことを教わった。
「オイチョ、カブ、ヤッテルカ?」と何度も繰り返す意味が最初分からず、ゴールドラッシュを舞台にした映画を見て納得した。

社員にどんどん給料をやって、働かせるだけ働かせて、ばくちで巻き上げるのが、腕の立つ経営者というものらしい。
そんな敏腕経営者になりたくて独立したわけではないので、平成11年の春からSOHOということにしたのだった。

2000.01.07

▼ コメントする

▼ サイト内検索                複数キーワードは半角スペースを挿入