転職大作戦は、「手の内の駒の数をふやして出直してこい!」というキツ〜イ一発から始まった。
 
1986年5月だった。その年の3月で住宅メーカーのS社は、在職丸3年を迎えた。
いよいよ、石の上にも3年待った第一回目の転職の時期が来たのである。

将来的には、住宅設計をライフワークとしながら幅広い建築設計者として生きていきたいと考えていた私は、次の修業先を決めるにあたり、何となく毛色の変わった世界を見ておきたかった。
転職情報誌をあさった。
その時は、S社の営業マンとして車で外を飛び回っていたので誰にも邪魔をされずに車の中で情報誌に没頭することができた。
いろいろあった。大・中・小・高給・薄給・有名・無名・好条件・悪条件.......。
バブルの始まるちょうど2年ぐらい前である。
買い手市場だった。

まず最初に、『有名・小』を選んだ。
当時私のあこがれていた「渋谷東急ハンズ」をプロデュースした浜野安宏さんが率いる株式会社H商品研究所である。
ある就職情報誌に出ていた。

彼が書いた「男の存在証明」は、今読み返してもゾクゾク来る。

日本では、相変わらず男が田畑の中であくせくと働き、論理を振り回し、行動している。
しかし、男はバリ島の男たちのように静かにあぜ道に立って、日没を眺め、月を見つめて、その美しさを発見し、自然の知恵を学び自分たちが田畑で作り上げてきた『現代文明』をもう一度、じっくりと見つめる必要があるのではなかろうか。
〜中略〜
すでに何度も述べたが、石油・石炭をエネルギーとして成り立ったひとつの文明が終わろうとしている。
その文明の担い手は白人狩猟民族であり、日本人はその露払い的な存在であった。
また白人狩猟民族の便利な生産地としての役割を果たしてきた。
その過程の中で多くのものを失ってきた。
あぜ道の側に立って、今こそ男は、静かにじっくりと代案を考えるときなのである。
最もすばらしい男の存在証明ができるように.......。

男の目前を素晴らしく魅力的な女が腰を振って歩いてゆく。
すごい存在で迫ってくるセックスアピール。
体の中からこみ上げてくる男のエネルギーを爆発させて、女を組み敷き、無理やり犯してしまう。
......こんなストレートな男の存在証明ができた時代は遥かなる大昔である。
今こんなことをしたら男はすぐに手錠がかかる。
男の純粋な存在証明欲求は法や常識的良心というシロモノによって完全に封じ込められてしまっている。
それでも男は男自身の力で男になるしかない。
これはそのためのいくつかの試行錯誤である。
男たちよ、たがいにゆっくりとリラックスしてがんばり直そうじゃないか!

しびれる。男でありながら、しびれないやつは男じゃないと思ってしまう。
そのくらいに田舎生まれの男の私としてはしびれてしまった。


恐る恐る震える手を押さえながら電話をかけた。
すると恐くもなんともない三島さんという担当者の声が受話器の向こうから聞こえてきた。

「就職したいんですけど。」
「では、履歴書を持ってきてください。」
「いつですか。」
「では、○月×日の△時でいいですか。」
 「はっ、はい。よろしくお願いします。」

○月×日の△時に絶対遅れないように会社をさぼってしっかり出かけていった。
そこは六本木のど真ん中である。
メンズクラブで仕入れた正装で決め込んでいった。
(何てことはない、ヘビーデューティー・アイビーくずれで行ったのだが......※ヘビ・アイ〜簡単に言うと質実剛健山歩き用アイビールック)

はじめて行ったにもかかわらず、思っていた通りにカッコイイ!と思ってしまった。
そこはビルの谷間にひそかに建つ、ペンキで塗り込められた六本木の一軒家だった。
私が感じ入ったのは、その会社が六本木という街に存在するということではなくて、ペンキが幾重にも塗り込められた質素な一軒家でありながら、世の中を動かしてしまうくらいの思想が生まれているというクリエイティビティをビルの谷間で感じてしまったからなのである。

社屋に一歩踏み入れてギシギシなる床に、また感じてしまった。
「こんなところで....」
もし、訪ねていったところが六本木のとあるビルの5階でかび臭い階段室をハアハア息を弾ませて昇りながら出逢った箱ハウスだったのであれば、また人生観が変わっていたかもしれないと思う。
のだが、そうではなくて、床がギシギシなるようなペンキ・ハウスだったのでカッコイイ!と思ってしまったのである。

それは、高校生の時にポパイで垣間みたアメリカ西海岸の世界に近似していたのである。
「都市のなかでクリエイティヴなゆとりのある空間を自らの手で創造してしまう。」というポパイの世界がそこにあった。

もしかしたら浜野さんに会えるかもしれないと思いながらキョロキョロしていた。
「佐山さんですか。こちらへどうぞ。」と女性の方に案内されて会議室へ通された。
「三島です。」とすぐに担当者が入ってきた。
「ところで佐山さんは何ができますか。」
「ん.....!え〜っと!住宅の設計と現場と営業と......。」
「商業施設の経験はありますか。」
「いえ!これから経験を積んでみたいと思っています!」
「うちは少数精鋭でやっているので未経験者を教育している余裕がないんですよ。もう少し別のところでいろいろと経験して手の内の駒を増やして出直して来てください。では。」
「ん.......¨;」

がーん!と一発、言い放たれあっけなく終わってしまった。
しばらく六本木の街の中をうろうろしながら「手の内の駒...手の内の駒....」と頭の中で言葉だけがぐるぐる回っていた。
今までの経験だけでは、通用しないのだろうか。
やる気があるだけでは、通用しないのだろうか。
意味もなく雑踏の中を行ったり来たりしていた。


気を取り直して、次のトライが始まった。
『小』では、未経験者を教育する余裕はないのかもしれないと思い『中』をねらってみた。
そんな中、『小・高給』と『中・薄給』の商業施設系企業が目に止まった。

まずは、『小・高給』から攻めてみた。
また、なぜか六本木だった。
「手の内の駒」の経験があったのでダメでもともと電話をしてみた。
履歴書を持ってきてくださいとのことだった。
行くとまたペンキハウスの一軒家だった。
なぜか六本木の設計事務所はペンキハウスが流行りらしかった。
しかし、そこは前回ほどワクワクするものが無くむなしいただの貧しい一軒家に見えた。

そこは担当者ではなくて、社長の M氏が直接面接してきた。
こちらとしては、「手の内の駒」事件から日も浅かったせいもあり、多少のことでは動じないくらいに腹が据わっていた。
そんなこともあり、面接の時に40歳くらいの社長を相手に「あなたの将来展望は?」なんてやってしまった。
そんな私の堂々としたふてぶてしさが気に入られたらしく、すぐにM社長の将来展望やら私の将来構想やらの話で話が盛り上がってしまった。

「また、こちらから連絡するよ。」といわれペンキハウスを出て六本木の街に出た。
しかし、なぜかほんの5分ぐらい前に盛り上がっていた内容よりも「手の内の駒...手の内の駒....」とまた例の言葉が頭の中でぐるぐる回っていた。
街の雑踏の中で「手の内の駒...手の内の駒....」とぶつぶつ言いながら日比谷線に乗り、電車の中でも目は宙を舞い念仏のように「手の内の駒...手の内の駒....」とやっていた。
 
次は、『中・薄給』の企業の面接だった。
その企業は大学4年の時に会社説明会に出席したことがある企業だった。
その時の説明会の担当者は何となく暗くあまり全体的にいいイメージを持たなかったのでそれっきりでアプローチしていなかった。
しかし、中途入社募集、若手歓迎とあったので、もしかしたら中規模の企業であれば未経験者の私でも修行させてくれるかもしれないと思い再度訪ねてみることにした。

場所は上野で有名な人が居るわけでもなく何のワクワクすることもなく自然体で出かけていった。
しかし、大学時代からその筋ではトップ企業と知っていたので、ある程度の期待はあった。
その期待とは、自分の修業先として充分かどうかということなのだが。

訪ねてみると、学生時代に会社説明会で受けた印象やそれまで面接を受けてきた『小』とは違い会社全体にざわざわとした活気があり、なぜか気持ちが良かった。
よくよくその企業の説明を聞いてみると種々雑多な業務を日常業務としてやっていることがわかった。
建築設計、インテリア設計、マーケティング、商業施設、文化施設、リゾート開発、地域開発、何でも屋だった。
私は、その何でも屋がえらく気に入ってしまった。
そして、なんだか全体的にざわざわしている活気も好印象だった。

「また、連絡します。」と言われ上野の雑踏に意気揚々と出ていった。
そして、またしても「手の内の駒...手の内の駒....」とぶつぶつやっていた。
しかし、六本木のぶつぶつとは明らかに違い、空を見ながら胸を張り「手の内の駒...手の内の駒....」とやっていたのだった。


少しだけ悩んだ。
『小・高給』と『中・薄給』。
当時、25歳で妻がある身としては、『高給』は捨てがたかった。
子供でも生まれようものなら自分の夢や修行を続けられなくなると思い、少しだけ悩んだ。
妻は悩まず『高給』に目が釘付けだった。

しかし、『小・高給』のM社長は、私にパートナーとしての期待をしてきていた。
初回の面接から息があってその後何度か面接を繰り返したのだったが、会う度に私に過度の期待をしているようだった。
私としては、うれしくもあり期待に添える自信は十分にあったのだが、「手の内の駒」を増やすという意味では心細かった。
その社長一人からノウハウを吸収してしまったら終わりなのである。
駒がひとつだけでは、不安だった。
30歳までに3回の転職を重ね、建築の世界に挑もうとしている若者にとっては、手の内にする駒は多すぎて困るということはないと思いこんでいた。
『中・薄給』の企業は、その点申し分無かった。自分を試すフィールドは限りなく無限に見えてしまっていた。
 
少しだけ悩んで、すぐに結論が出た。
『中・薄給』からも強力なアプローチがあり迷わず『中・薄給』に転職することに決めたのである。
妻は、少しだけがっかりしたものの私の将来的可能性に賭けてくれてひとまず納得してくれたのだった。

そうして、1986年5月に転職を決行した。
前職を退職するにあたりかなりの引き止めがあった。
しかし、石の上にも3年待った上での結論である。
自分の意志に揺らぎはなかった。
新たなる修行への旅立ちなのである。
さわやかに慰留を断り続けた。
やめる直前に私が仕掛けていた一軒の住宅の契約が他の社員の手柄となった。
その歩合給は約30万円程だったが、「いいですよ。いいですよ。」と何の未練もなくさわやかにその社員に渡してその企業での修行は幕を閉じた。
そしてまた、「手の内の駒...手の内の駒....」と意気揚々にして2社目のT社へと転職していった。

転職してみると『大・高給』と『中・薄給』は大違いのことが多くかなりのカルチャーショックを受けてしまった。

つづく
 

平成8年 3月 若潮


あとがき

今から14年前の話しだ。
期待通りにT社では、いろいろな修行をさせてもらった。
結局、3年程度で転職しようと思っていたのだが、8年ほども修行させてもらった。

結果、多くの手の内の駒を仕入れることができて、今の生活空間研究所があるのだ。
新入社員からの3年間は、住宅産業とはなんぞやを学び、その後の8年間は、世の中の流行や財布の紐をゆるませる手法はどのようにして、というのを学んだ。

どれも大きな財産になっている。
2回目の転職はせず、10年強修行を積んだところで、自分で会社を作ってしまった。
すこし、人生設計の軌道はずれたけど、これでいいのだ。

2000.01.31  

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