1986年5月、無事念願の転職を果たした。

周囲の人たちは勝手にいろいろなことを言っていた。
当時北海道にいた両親は、北海道の親戚でもわかる前企業を退職することに未練を感じていた。
ことさら母親は、せっかく大学まで行かせて、1部上場企業に勤めてやれやれと思っていた矢先のことだったので、最後までブツブツ言っていた。

しかし、新入社員当時、すぐにでも辞めてしまいそうな私を「石の上にも3年」と言ってなだめすかした本人でもあり、もうこれ以上はなだめすかせることは無理だろうと思ったらしく、最後には「好きなようにしたら」とさじを投げてしまった。
T海上に勤めていた友人は、しきりにもったいないもったいないと言っていた。
彼は、どんなにつらくても定年まで我慢しているとその先にバラ色が待っていると信じてやまなかった。
だから同じ上場企業を捨てる私に、もったいないもったいないとしきりに言っていたのである。
価値観が違っていたので、彼の言葉を聞きながら私は、「うんうん」と笑って聞き流していた。
定年までの約35年間我慢し続けるなんて考えただけでも気が遠くなりそうだったので、力説のあまり彼の口の脇に出来ていたあぶくを見ながら「ごくろうさまです」と聞き流していた。

他にもいろいろな人がそれぞれの物差しでいろいろなことを言うので、多少不安にはなった。
しかし「人の数だけ人生の数があるのだ!」と自分に言い聞かせ、自分の人生に向かって自ら一歩踏み出したのである。
それから既に11年ぐらい経過しているけれど、今のところ間違った選択ではなかったと思っている。


5月の中旬頃から、第2の修業先のT社に中途入社社員として勤務するようになった。
私の配属された部署は、その企業のなかでも特異な部署のようだった。
企業に仕えるというよりは、一匹オオカミのごとく「自分の仕事は自分でやる」と言うような人たちばかりが集まった部署のようだった。
言い換えれば、会社にとっては煙たく、組織までも乱しかねない連中だが、仕事をさせれば一流なので、会社としてもクビにするわけにもいかないという感じの仕事師集団だったらしい。

「朝9時出社ですので遅れないようにしてください」とネクタイ姿の人事部の担当に言われていた。
前企業で鍛えられていたので、朝9時出社であれば8時30分ぐらいに行けば大丈夫だろうとその日に備えていた。

当日、第一印象が大切だと思い「おはようございます」と元気よくその部署のドアを開けた。
「ん・・・・!」いない。
曜日を間違ったか。
あるいは、出社場所を間違ったか。
すぐには見当がつかなかった。
気を取り直して、出入口のところにかかっている部署名を確認した。
間違っていなかった。

石の上にも3年間、鍛えられて第1修業先を卒業してきた若者にとっては出鼻をくじかれた感じがした。
しかたなく部屋の電気を自分でつけて、入り口付近にあった打ち合わせテーブルらしきところに座って待つことにした。
待つこと15分あまりで、その部署の部長があたふたとやってきた。
「あっ!佐山君おはよう。早いねぇ」とびっくりしたようにあわてて、電気をつけようとスイッチを押した。
その日はもう私が電気をつけていたので、部屋が暗くなってしまった。
いつもは部長のH氏が一番最初に出社し、照明のスイッチを付けることになっていたのであろう。

その辺からもう既に前企業のスタイルと全く違っていた。
どちらがよいかは何ともいえないところであるが、前企業では若いのからフロアーが埋まり、最後に一番偉い営業所長が、悠々とやってくるのがおきまりだった。
そんなことに慣れてしまっていたので、その部屋で一番偉い部長が電気をつける係をやっているなんてのは、ところ変われば変わるモノだと変に感心してしまった。
 
しかし、なんだか自由な空気を感じていた。
「佐山君はこの席だから」と部長に案内され、席に着いた。
その部長とは中途入社面接の時から何度か会ったことがあったので気分はほぐれていた。

それから15分くらい経って、始業のチャイムが鳴った。
そのころからパラパラと何人かの社員がやってきた。
皆それぞれに抱えた難問と格闘しているのか眉間にしわを寄せながら、新人の私にちらっと目をやりながらしらん振りして通り過ぎていった。
私は、その都度背筋を伸ばしペコペコしていたが、皆が皆「あんたなんかに気を取られていたら時間がもったいないね。」ってなかんじで自分の席に着き、すぐに忙しそうに仕事を始めたので、私も邪魔しないようにしらん振りする方がいいかなと机の引き出しとかを引いたり押したり中を見たりしていた。
やることがなかったのである。

「おはよう」「ん・・・・!」不意をつかれた。
「佐山君?だよね・・」「はあ・・」
「これからよろしくな」「へ・・」

実は、配属先は聞いていたけど直属の上司の名前は聞いていなかったのである。
出社日と配属先を聞いていただけで何課の誰の下になるとまでは聞いていなかった。
「TAKENAKAです。よろしく」「さ・さやまです。よろしくお願いします」
何の形式も建て前もないのである。
その日は少なくとも同じ部署の人たちに紹介されるのかなぁと思っていたのだけどもそれは来週の月曜にするのでと言うことだった。

しきたりと長をあがめたてる形式の世界から実質と合理性に満ちた世界への急転換はかなりのカルチャーショックを受けてしまった。
しばらくしてまた「おはよう〜!」とお姉さんがやってきた。

また、「佐山君?よろしくね」「はあ・・」
「わからないことがあったら、このOさんに聞くように」とだけ言い残し、Tさんは外出してしまった。
既に朝9時45分になっていた。その時点でその課の私を含めて3人は全員顔を合わせ、それぞれの仕事へと入っていったのである。

まず、朝の全員朝礼の後、課のミーティングがあって、しこたま絞られた後、9時の始業のチャイムが鳴り「さあ仕事だ!」とケツをたたかれ続けてきた3年間とは大違いであった。
今となってはどちらが良いとは一概に言えないが、いろいろな組織を経験するという意味では、とても良かったと思う。


起業を含めて、転職するスタイルはいろいろで人それぞれ違うものだろう。
志茂田影樹のように数十回の転職の末、天職に出会い花が咲くというケースもあるだろう。
私の場合は、「大企業・給料は我慢料」から「中企業・給料は授業料天引き」と続き、「社長業・給料は社員の残りかす」すなわち大企業→中企業→自営・起業とすすんだ訳である。

ケースはそれこそ人の数だけあると思うが、私の少ない経験から判断すると、出来るだけ異なる環境を経験していた方が、後々有効になるような気がするので良いと思う。
ところ変われば全てが変わるわけであるから「定年後にバラ色の人生が待っている」と信じている方々以外は、出来るだけ多くの手の内の駒を持っていた方が力強い生き方が出来るような気がするので、その道へ突き進んだ方がよいと思う。

そこで大企業から攻めるか、その反対から攻めるかは、どの道を経験してきたかによって意見が分かれるだろうが、もしこのエッセイを就職に悩んでいる学生が読んでいたとしたら、出来るだけ大きなマンモス企業に潜り込んだ方がよいと思う。
それは、そこでしか経験できない慣習やらしきたりやらが渦巻き、人間関係や、くだらない、そこだけのやり方が掟となっている場合などがあり、とても有意義な体験が出来るからである。
かりに起業した後、一部上場の企業を相手に取引を開始することがあるとしたら、どこの部署の誰がキーマンで、どのような攻め方をすればうまく行くのかという空気を敏感に感じとることが出来ることもあるであろう。
やはり、百聞は一見にしかず、である。
手の内の駒は、多いに越したことは無いのである。

いま、私が一部上場の大企業と取引を開始するとしても、何の気後れもなく堂々と取引をすることが出来る。
それは、「我慢料」をもらいながら企業に仕えている担当者と、「社員のかす」しか給料をもらっていない社長とのハングリー度合いが大きく違っているからだ。
また、そう言い切れるのは、私には慣習もなければ建て前もなく、ただただ社会への貢献と自分の夢の実現だけで勝負にでていくという、気構えの違いがあるからだろう。

しかし、生きていくことは楽しいことである。
これからもどんどん人生を楽しんで生きていきたいのである。
                                              
つづく

平成8年4月大潮


あとがき  

企業カラーというのがある。
企業の中にいると、属している集団が何色なのかさっぱり見えてこない。
しかし、外の人間からはよく見えるものだ。

正確で落ち度のない歯車を求める企業であったり、個人個人の力量に大いに期待する企業であったり。
さまざまなカラーがある。
それこそ、企業の数だけ、カラーがあるだろう。

第二の修業先は、最初の修業先のカラーとは、まったく違った。
どっちがいいかは、わからない。
しかし、企業が個人の力量を求め、それに期待し、それにむくいる、というのが、企業戦士にとっては理想だろう。

なぜならば、つぶしがきくからである。
その企業でしか通じない論理で、歯車だけを担当していると、自分で考えることができなくなってしまうからだ。
考えることは、どうしたら、減点対象にならないか、失敗しないか、そんなことばかりになるかもしれない。

人生って、歯車でもなく、失敗がつきもので、考えながら生きていかなければならないからである。

久しぶりに、このエッセイを読んで、あらためて考えさせられた。

2000.04.02

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