//////////// この記事は「関東大震災の思い出 追録」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえる大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月) /////////////
70年前のあの日の朝も、今日のように雨が降った。
70年前のあの日の朝も、今日のように雨が降った。
雨がやんで2、3軒先の駄菓子屋に何人かの子供たちが集まって遊んでいた。正午に近く(11時58分)本当に何の前ぶれもなく、それこそ突然に大地震が襲った。屋根の瓦があつちこっちから飛んで来る中を、多分泣きながら自分の家に飛んで帰ったのを覚えている。家では母が一人でちょうど昼の食事を作るため、七輪に鍋をかけ、煮物の最中だった。窓のそばのタンスの前で、親子が抱き合って激震に耐えていた。何度目かの余震の中で母は七輪の鍋を下ろして、水をザップリとかけて火を消した。
家の床の一部がくずれて、いろいろなものが棚から座敷に散乱した。それでも家自体は大きな被害はなかった。余震も漸く一段落した後、家の前の「紺屋の張り場」に近所の人が集まって来て、恐怖の地震の大きさを語りあった。戸板を集めて地面に敷いた。(地割れがあると大変だから)
家の中がガチヤガチャになって居り、夕方になって父が会社(東神奈川)から帰って来たら、「どうやって寝るやら?」なんて話し合う余裕があったけれども、午後になってあちらこちらから火の手があがった事がだんだん判って来た。黒い煙が本所の方からも洲崎の方からも高く大きく見えて来て、ついに2、3丁先の3階建の病院からも赤い大きな炎が吹き出して来たのを見た。「これでもはもう助からない。」と漸く逃げ仕度にかかった。後で分かった事ではあるが、深川西町あたりの人達は殆ど本所被服廠跡に逃げるつもりであったが、その方面からの火の手を見て、反対方向に逃げ出したものが多かったようだ。
母は亡き祖父母や幼くしてなくした姉つる子と兄俊郎の位牌と貯金通帳の他、わずかばかりの身の回り品の包みを持って、5才になってかなリデブだった私を負い、ひもで背中にくくって家を出、扇橋の渡辺虎吉家(川岸で鉄工場をやっていた)に着いた。徳工門町にいた輪島の妹、たけが幼児二人と共にすでに先に着いていた。母は夕方近く私をたけに託して再び我が家に戻った。ところが、工場付近にも火の手が迫ったのでたけは、赤子を背負い両手に2人の幼児(私と従妹)を連れて小名木川方面へと逃げた。
母が工場に戻って来た時には、私たちはすでに脱出した後で、母は私たちが何処へ行ったのかまったく判らず、別の知人と出会って共に一晩中さまよい歩いて、私たちを捜し求めた様だった。
私たちは当時父が勤めていた日本製粉の小名木川工場にたどり着いて居たが、翌2日の昼頃母はそのそば辺りまで来て居り乍ら何故かその工場迄は来なかった。
母は、川のほとりで「死んだ子供たちの位牌を持って、生きて逃げている子供を放り出す結果になり、夫に会わす顔がない。死んでお詫びするしかない。」と念じつつ、川に飛び込もうとした。間一髪、偶然まったく、偶然にちょうどその時通りかかったたけの夫、国蔵が「姉さん!どうしました!」と声をかけた。「八郎が居なくなって...。」「女房がそこの工場に一緒に連れて来てるヨ。」聞いたとたんに腰が抜けた様にその場にヘタヘタと座り込んでしまった。
父は日本製粉の東神奈川工場で地震に遭った。
「東京下町辺りが大変だ。」と言う声で不通になった電車の線路を歩いて東京に向かったが、月島辺りでもう火災で一歩も進めなくなっていた。何処で知ったのか?不思議な気もするのだが、2日の夕方になって、小名木工場にたどり着いて、親子二人お互いの無事を確認しあった。
さて私たちは、毎日毎日工場で放出した(のだろう)ウドン粉で味噌の豆つぶが一杯のスイトン汁を食ベて過ごした。
数日後(何日位だったか)父は焼け跡に自分たちの避難先の立札を出してきた。その立札を探し探しの末、見いだして、長兄、太一氏が浦賀から見舞いにやって来られた。父母は泣いて喜んだ様だが、私は全然覚えていなくて申し訳ないと思っている。
親子3人で焼け跡を見に行ったのは数日程たってからだったろう。道で大きな馬が黒焦げになって死んでいたのを今でもはっきりと覚えてはいるが、不思議と死んだ人間の姿は見ていない。「深川から九段の靖国神社の鳥居が見える。」と言っていた様だが、本当かどうかは知らない。ただ、高い建物が少なかった当時としては、本当かもしれない。まったく東京中が「焼け野原」になった様な状態だった。
復興の槌音はかなり早く始まった様だが、近所の人達は郊外に去ったものも多く、今でも年賀状だけのやりとりではあるが、連絡しているのは隣家の月田長利さん(柳堀悦太郎さんの親類)だけになってしまったが、皆さん夫々に所謂下町の人情にあふれる人達だった。
この関東大震災は、長い東京の良い伝統を焼き捨てて、新しい東京が始まったように思える。(更にずっと後になるけれども22年後の太平洋戦争による東京大空襲によってまたまた、あの辺りは大被害を被り何万人もの死傷者を出すわけである。)
私はこの震災の翌13年の4月1日に小学校に入学した。洋服は買ってもらったが、学用品は一式配給になった。何かの式の日に友だちの何人かが、紋付き袴で来た時に、前年の5才の七五三の祝いに作つてくれたキュッキュッと鳴る羽二重の紋付きを母にねだっておこられたのを僅かに覚えている。
父母はこの頃42、3才位の働き盛りであったのだった。
平成5年9月1日
出典:関東大震災の思い出 追録(平成8年11月3日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/
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家の床の一部がくずれて、いろいろなものが棚から座敷に散乱した。それでも家自体は大きな被害はなかった。余震も漸く一段落した後、家の前の「紺屋の張り場」に近所の人が集まって来て、恐怖の地震の大きさを語りあった。戸板を集めて地面に敷いた。(地割れがあると大変だから)
家の中がガチヤガチャになって居り、夕方になって父が会社(東神奈川)から帰って来たら、「どうやって寝るやら?」なんて話し合う余裕があったけれども、午後になってあちらこちらから火の手があがった事がだんだん判って来た。黒い煙が本所の方からも洲崎の方からも高く大きく見えて来て、ついに2、3丁先の3階建の病院からも赤い大きな炎が吹き出して来たのを見た。「これでもはもう助からない。」と漸く逃げ仕度にかかった。後で分かった事ではあるが、深川西町あたりの人達は殆ど本所被服廠跡に逃げるつもりであったが、その方面からの火の手を見て、反対方向に逃げ出したものが多かったようだ。
母は亡き祖父母や幼くしてなくした姉つる子と兄俊郎の位牌と貯金通帳の他、わずかばかりの身の回り品の包みを持って、5才になってかなリデブだった私を負い、ひもで背中にくくって家を出、扇橋の渡辺虎吉家(川岸で鉄工場をやっていた)に着いた。徳工門町にいた輪島の妹、たけが幼児二人と共にすでに先に着いていた。母は夕方近く私をたけに託して再び我が家に戻った。ところが、工場付近にも火の手が迫ったのでたけは、赤子を背負い両手に2人の幼児(私と従妹)を連れて小名木川方面へと逃げた。
母が工場に戻って来た時には、私たちはすでに脱出した後で、母は私たちが何処へ行ったのかまったく判らず、別の知人と出会って共に一晩中さまよい歩いて、私たちを捜し求めた様だった。
私たちは当時父が勤めていた日本製粉の小名木川工場にたどり着いて居たが、翌2日の昼頃母はそのそば辺りまで来て居り乍ら何故かその工場迄は来なかった。
母は、川のほとりで「死んだ子供たちの位牌を持って、生きて逃げている子供を放り出す結果になり、夫に会わす顔がない。死んでお詫びするしかない。」と念じつつ、川に飛び込もうとした。間一髪、偶然まったく、偶然にちょうどその時通りかかったたけの夫、国蔵が「姉さん!どうしました!」と声をかけた。「八郎が居なくなって...。」「女房がそこの工場に一緒に連れて来てるヨ。」聞いたとたんに腰が抜けた様にその場にヘタヘタと座り込んでしまった。
父は日本製粉の東神奈川工場で地震に遭った。
「東京下町辺りが大変だ。」と言う声で不通になった電車の線路を歩いて東京に向かったが、月島辺りでもう火災で一歩も進めなくなっていた。何処で知ったのか?不思議な気もするのだが、2日の夕方になって、小名木工場にたどり着いて、親子二人お互いの無事を確認しあった。
さて私たちは、毎日毎日工場で放出した(のだろう)ウドン粉で味噌の豆つぶが一杯のスイトン汁を食ベて過ごした。
数日後(何日位だったか)父は焼け跡に自分たちの避難先の立札を出してきた。その立札を探し探しの末、見いだして、長兄、太一氏が浦賀から見舞いにやって来られた。父母は泣いて喜んだ様だが、私は全然覚えていなくて申し訳ないと思っている。
親子3人で焼け跡を見に行ったのは数日程たってからだったろう。道で大きな馬が黒焦げになって死んでいたのを今でもはっきりと覚えてはいるが、不思議と死んだ人間の姿は見ていない。「深川から九段の靖国神社の鳥居が見える。」と言っていた様だが、本当かどうかは知らない。ただ、高い建物が少なかった当時としては、本当かもしれない。まったく東京中が「焼け野原」になった様な状態だった。
復興の槌音はかなり早く始まった様だが、近所の人達は郊外に去ったものも多く、今でも年賀状だけのやりとりではあるが、連絡しているのは隣家の月田長利さん(柳堀悦太郎さんの親類)だけになってしまったが、皆さん夫々に所謂下町の人情にあふれる人達だった。
この関東大震災は、長い東京の良い伝統を焼き捨てて、新しい東京が始まったように思える。(更にずっと後になるけれども22年後の太平洋戦争による東京大空襲によってまたまた、あの辺りは大被害を被り何万人もの死傷者を出すわけである。)
私はこの震災の翌13年の4月1日に小学校に入学した。洋服は買ってもらったが、学用品は一式配給になった。何かの式の日に友だちの何人かが、紋付き袴で来た時に、前年の5才の七五三の祝いに作つてくれたキュッキュッと鳴る羽二重の紋付きを母にねだっておこられたのを僅かに覚えている。
父母はこの頃42、3才位の働き盛りであったのだった。
平成5年9月1日
出典:関東大震災の思い出 追録(平成8年11月3日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/
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