1986年5月、住宅メーカーから内装・ディスプレイ業界最大手のT社に転職した。
手の内の駒を増やすことを考えての転職だったので業務の全てが初めてづくしだった。
望んでいたこととはいえ社会人4年生でもあったので「わかりません」では済まされず、自らどんどん吸収・消化していかなければならなかった。
それはそれは、苦しくても愉しい修業の日々だった。
私が、第2の修業先で所属したのは商業施設の企画開発部門だった。
当時、バブル経済のはしりの時期だったこともあっていろいろな仕事が次々と舞い込んできていた。
右肩上がりの経済事情でもあり、大手企業の新規事業開発の仕事が多かった。
その中でも強烈に印象が残っている仕事があった。
本誌を読んでいる起業家や予備群の方々にもとても有益な話であろうと思うので惜しげもなく披露したいと思う。
それは、都内某所のKスタヂアムからTドームへと変貌する際の商業施設計画だった。
それまでのKスタヂアム時代は、売店と呼ばれていたキオスクスタイルの小さな個店が要所要所に散らばっているだけの商売のやり方だった。
しかし、場所が場所なので瞬時には数万人というお客が集結し、お祭り気分に浸って衝動買いをするという異常な盛り上がりを見せることもあってその商売のやり方でも売上は相当のものがあった。
そういう商売的にはいい状況の中であえて、Tドームという日本でも初めての全天候型一大イベントスペースに生まれ変わるにあたり、商売のやり方を見直すことになったのだ。
それも『売上倍増以上指令』が、出されたのだ。数字的には、当時年間4(よん)の売上を10(じゅう)にしろという厳しい指令が出されたのである。
予測される観客動員数は、プラス25パーセント強。
即ち訪れるお客様の数は、4が5に増えるだけである。
そのような状況で売上だけは、『4を10に』という厳しい条件だった。
その第2の修業先に転職するまでは、住宅を建てるお客様の「夢の道先案内人」としての修業しかしていなかったので、お店の売上を上げるなんてことは皆目わからないことだらけであった。
必死に勉強、吸収した。
その仕組みや仕掛けが次第にわかってくるにつれて、ひとつひとつ手の内の駒が増えていく実感があり、苦しくも愉しかったのを覚えている。
当時、東京ディズニーランド(以下、TDL)の物販店が大盛況を納めていた。
TDLが、出現するまでの遊園地での物販店の形態は、やはりTスタヂアムのようなキオスクスタイルの売店程度のものだった。
しかし、TDLの物販店は違っていた。
何が違うのか。
良く観察することから始まった。
まず、商品が違っていた。
TDLで展開されている様々なアトラクションのキャラクターが勢揃いし、小さなキーホルダーから等身大のぬいぐるみまで様々な商品に反映されていた。
一日遊んでその思い出をそれぞれの嗜好に合わせてお持ち帰りいただけるようにあらゆる商品に展開されていた。
小さな子供からお年寄りまで徹底的にお持ち帰りできるようになっていた。
それらの商品を持ち帰ることによってTDLの余韻を家でも楽しめるようになっていた。
単なるおみやげ店の売上が上がるだけではなく、TDLの年間入場パスポートが売れている背景にこれらのおみやげ品も一役買っているのであろうと思われる。
次に、売り方も徹底していた。
何が徹底していたのかというと演出的なのである。
あたかもアトラクションの一員が売場に出てきて売っているような感じなのである。
非現実感を演出することで気分を現実に戻すことなく、錯覚の中で財布の紐をゆるめさせるテクニックがそこには存在していた。
基本的には、おみやげ品である。
実生活上で必要な商品ではないのである。
ハッと我に返る瞬間があれば、「やめとこ」となってしまう商品群なのである。
話はそれるが、宝石店などもその典型である。
生鮮食料品とは違って生活する上で必ず必要なものではないのである。
宝石店の場合のテクニックは陳列什器が途切れないようにすることである。
一番望ましいのは、ガラスケースをドーナツ状にしてガラス面から顔を上げる瞬間をなるべく少なくすること。
顔を上げて深呼吸する瞬間をつくってしまうと「やめとこ」になってしまうケースが多い。だから途切れないようにするのである。
話を戻すが、売り方の次にTDLは、売場その物の空間も徹底的に演出していた。
売り方同様、アトラクションの一部が売場になっているのである。
そこは、ワールドバザールと呼ばれ、TDLのなかでもおみやげやが集中しており、仮想物語上のマーケットになっていた。
それも入口近く、逆を返せば出口付近に繰り広げられていた。
一日遊んでまだ遊び足りなくて後ろ髪を引かれる思いで帰らなければならない人たちを待ち受け、送り出すにはふさわしい場所に形成されていた。
商品、売り方、空間構成、理にかなっており、TDLのおみやげ品は売れないわけはないのである。
お客様の望むものを気分を盛り上げたまま最高の立地で買っていただくのである。
売る方も買う方も大満足である。
喜んで買っていただくことが先である。
売上を伸ばすことが先ではないのである。それは商売の原点であるとみた。
TDLの物販店を調査分析して何となく商売の原点を見たような感じがした。
そのTDLの調査などは、業界用語では、マーケティング・リサーチ(市場調査)といわれる。
類似例を調査して方向性を導き出すのだ。類似例を知り、その長所、短所を分析して新規事業の手本とする。
これから起業しようとしている人、すでに起業しているが、いまいち伸び悩んでいる人などは、類似業種を良く観察して長所短所を整理してみると良い。
なぜ、業績が上がっているのか、なぜ業績が落ち込んでいるのか、観察してみると良い。
現在でも私のところに依頼されてくる「売上を上げたいのだが、どうしたらよいか」などという物件は、類似例の調査から始めることにしている。
そうして分析を重ね、大きく常にシフトしている世の中の流れを見つけだすのである。
ただし、同じことをやっても効果的ではない。その時々で、よりベターな味付けをしていくことが大切なのである。
Tドームの場合もTドームに一番あった味付けを試みた。
それも視点はズバリ3点に絞られた。
商品(品態)、サービスの仕方(業態)、そして店舗形態(店態)の3点である。
今現在の私の商業施設の取り組み方もこのときに学んだやり方を踏襲しており、しっかりと手の内の駒になっている。
商品構成は、それまでの野球応援グッズだけだったものからTDLの事例や世の中の流れを見て大きく変えた。
Tドームになると周辺一体がシティリゾートとして機能し始めることが予測できた。
野球観戦の人や場外馬券を買いに来る人だけではなく、シティリゾートを楽しむためにやってくる人の動員数もバカに出来ないと踏んだのである。
約1年半の検討の末、従来の野球応援グッズの他に、感性を大切にした商品群、遊び心を大切にした商品群、まんじゅうに代表される手軽なみやげの食品群の新しい3つの商品群を導入することになった。
サービス形態は、キオスクスタンドのため銭スタイルから専門店方式のレジカウンタースタイルに変えた。
このお金のやりとりの方法ひとつでそのお店の店格ががらりと変わるのだ。
店格というと馴染みがないかもしれないが、お店にも格があるのだ。私もその時初めてそのことを知った。
言葉にすると馴染みはないが、確かにそれぞれ個人個人でこんな場合はあのお店、あんな場合はこのお店と使い分けていると思う。
『TPOに応じて使い分ける』それは、店格があるから使い分けることが出来るのだ。
飲み屋を決める場合も『居酒屋』にするか『カラオケ・パブ』にするか、はたまた『ホテルのバーラウンジ』にするかケースバイケースで使い分けている。
話はそれるが、起業している方々も実は、格付けされているという事実に気付いているだろうか?自分の企業が世の中でどう位置づけされているか客観的に見てみることは必要であろう。
得てして自分のことは見えないものである。
自分の望んでいるまたは目指している企業像と世間が評価し格付けしている企業像と合っていることが望ましいが、ずれていると判断したら軌道修正が必要だ。
自分のところは、『居酒屋』なのか『ホテルのバーラウンジ』なのかは見きわめておくことが肝要である。
そして見きわめられたら徹底してその格の中で勝負することが勝利への道なのだ。
Tドームの場合も基本的にはおみやげ屋だった。
格を少し上げてもおみやげ屋には変わらない。
高級百貨店ではないのである。そこのところは、非常に大切であった。
その点を留意しながら、店員教育も約1年かけて徹底的に行った。
次に点在していた店舗を1ヶ所に集中して運営するということも難題として課せられたテーマだった。
それまでは、人の溜まりそうなところには必ず売店が配置され効率よく商売が成り立っていた。
それが、Tドームが完成する時点では、70坪の1ヶ所のみが売店として設定されているに過ぎなかった。
それもTDLの様に効果的な場所に配置されているわけでもなく苦戦が予想された。
しかし、我々がそのプロジェクトに参加した時点ではどうにもならなかった。
『売上4から10へ』の指令は、日々重くのしかかっていた。
転職早々、馴れない商業施設の売上拡大というテーマに悶々と格闘していた。
それも一級建築士の私が、売上拡大策を日々検討しているのである。
『急がば廻れ』とはこのことかもしれないと思った。
いずれこのことも大きな武器となるのだと言い聞かせ畑違いのことに立ち向かった。
少し客動線からはずれた70坪の店舗だけでは、売上が大きく伸びないと感じていた。
上司と検討に検討を重ねた結果、ゲリラ的に出没する演出された屋台で売上を伸ばそうということになった。
この計画は、その後マスコミに一部取り上げられたこともあるので知っている方もいるかもしれない。
それらは「ワゴンマスターズ計画」、「パンドラボックス計画」、「キオスクス計画」、「オレンジトレイン計画」、「ストリーキングス計画」と名付けられ事業主にプレゼンテーションを行った。
この考え方は、オープン後どう流れるかわからない客動線にたいし、直接店舗をぶつけていこうというものだった。
演出効果も考え、売上にも貢献させようとするのだ。
事業主側も反対する理由はなかった。
5つの計画案の内、「パンドラボックス計画」と名付けられた移動販売車計画が採用された。
普段は、建築やインテリアのデザインを行い、図面化している人間が、車のデザインをするのだ。
これは、外科の医者が、お腹が痛いと言ってやってきた患者を診るようなものだと思って好いだろう。畑違いなのである。
しかし、その時点ではプロジェクト予算が決まっていた。
車輌費が予算計上されていなかった。それで自ら企画書を手に車輌を提供してくれそうな大手自動車メーカーへ何軒も廻った。
この営業的な行動は、第1の修業先である住宅メーカーで学んだものであった。
バブル期とは言え、どの主要自動車メーカーからもいい返事がもらえなかった。
最後に飛び込んでいったM自動車が具体的に検討してもかまわないと言ってきた。
具体的に先が見えたのでデザイン作業にとりかかった。
延々と徹夜が続いたが、とても愉しかった。もしかしたら、これで『売上倍増以上』指令が達成できるかもしれないのである。希望にあふれていた。
あらゆる視点から『売上倍増以上』指令に取り組みTドームがオープンした。
オープン直前、徹夜で商品陳列やディスプレイに取り組んだ。開店秒読みまで最後の調整を行っていた。
オープン後、自分が約2年間試行錯誤を繰り返して取り組んできた店舗に、行列をなしてお客様が吸い込まれていく姿を見て背筋がゾクゾクしてきて止まらなかった。
興奮した。それまでの苦しみは、全て吹き飛んでしまっていた。
自分が初めてデザインした「パンドラボックス」の周りも人だかりで埋まっていた。
うれしかった。
我々で新しく導入したいろいろな商品も飛ぶように売れていく。
『とても良い回り道を経験した』と喜びをかみしめた。
この商業施設計画は、専門業界からも評価され’89ショップ・システムコンペティションに入選するというおまけも付いた。
それより何より、一番うれしかったのは、オープン後1年経過した時点で事業主に呼ばれて、次の話を聞かされたときだった。
担当者は、ニコニコしていた。
『次の店舗開発も君たちに任せたいのだが』
『開店前は、4だった売上が、1年目締めてみたんだが、なんと25まで上がっていたよ!』
予想以上だった。
第2の修業先で一番目に習得したことはお店の設計とは『売上拡大』のためにすると言うこと。
だれも『カッコのいい店』を望んでいるのではなく、『売れる店』を望んでいるということ。
今でもその鉄則は、この生活空間研究所に活きている。
つづく。 平成9年6月中潮
あとがき
もう、14年前の話である。
建築設計者が商売の基本を学ぶ機会はそうそうあるものではない。
「急がば、廻れ」との格言があるが、満を持しての転職は、とても有意義なものとなった。
そして、仕事のおもしろさと厳しさも同時に学んだ。
商業施設は、「売れてナンボ」の戦場設計なのである。
いかに気持ちよく財布の紐をほどかせるか、お金を使って良かったと思ってもらうか、これが肝心である。
かっこいい店は、誰でもつくれるが、売れる店はなかなかつくれない。
空間だけが立派でも繁盛しない。
市場を見極め、商品を厳選し、売り手の姿勢がしっかり伝わって、初めて繁盛するのである。
いまでも、商業施設の設計依頼があると、マーケティング、マーチャンダイジング、サービス形態を討議検討し、方向性が見えてからでないと戦場設計に取りかからない。
廻り道をしたおかげで、とても大きな手のうちの駒が、ひとつ手に入ったのである。
2000.07.07
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