1989年、3つのデザイン賞をいただいた。
前号で紹介した、Tドームの「新業態店舗」、M社の「新規事業開発店舗」、D社の「アンテナショップ開発計画」が受賞した。

「売れる店」「新規事業の柱となる店」を創れというオーダーのため、どの計画も店舗設計というよりは、商品、サービスの新規展開に重点を置いた店舗開発だった。
店舗デザインは、売れる店をつくるための手段でしかなかった。
しかし、それらのどれもがデザイン賞をいただいたのである。どの物件も苦労した2年越しの長期物件だったので喜びもひとしおだった。

第2の修業の場として転職して3年目で手にした社会的評価だった。
今にして考えると少し早かったかもしれない。
何故ならば、賞なんて簡単に取れるとタカをくくってしまい、変な自信がついてしまったのである。
それからは、なかなか社会的に認めてもらえる結果を出すことが出来なかった。
毎年「今年も賞を」と思いつつ、いくつか新作をリリースするのだけど全く認めてもらえなくなっていった。
確実に巧くなっているはずなのに認めてもらえないので不思議だった。

しばらくして気がついた。
大きな落とし穴にはまっていたのである。
転職して右も左もわからず、がむしゃらに進んでいたときと仕事への姿勢が違っていたのである。
どうやら小手先で仕事を進めていくようになっていたようなのである。

このことに気がついたのは、転職して5年目あたりだった。デザイン賞をいただいてから3年ぐらい経った頃だ。
やはり、どんな世界にもジンクスがある。
新人賞を取った次の年は活躍できないとやらである。
心のどこかに「そんなものか」といううぬぼれや変な自信が出て来るのだろう。
そして、それまであった、がむしゃらに前に進もうとするハングリー精神や探求心が一時的に無くなってしまうのだろう。

私の場合もそうだった。
気がつくとうぬぼれと変な自信が心を支配しており、前向きな姿勢が失せていた。
まだまだヒヨッコの私が、俗に言う天狗になっていたのである。足もとを完全にすくわれていた。

そのことに気がついてからは、また足もとを見つめながら着実に吸収の日々を送ろうと決心した。


1991年、春。
気の合う仲間同士で八丈島に行った。
北海道の山の中で育った私は、自然の中で遊ぶのがとても心地よかった。
その時は、2泊3日のキャンプ生活だった。
もう2度と帰りたくない、またいつもの仕事生活に戻りたくないと思ってしまった。
6人で行ったのだが、全員で「帰りたくない」「帰りたくない」と大人げなく言い散らしていた。

南の島特有のハイビスカスの赤い花、夕刻にたたきつける激しい雨、一定に吹き続ける心地よい風。
そんな中で、ほんとうに帰りたくなくなってしまっていた。

海を見つめ、風に吹かれながら、自分はいったい日々何をしているんだろうとぼんやり考えていた。

都会の中で、毎日毎日通勤地獄に身を任せ、山積みになった仕事へと挑んでいく。
その一日が終わる頃には、ヘトヘトになり山積みの仕事を横目にしながら飲み屋へと消えていく。
会社員なので気を抜いても多少さぼっていても給料はもらえる。
自分の興味のあることではなくて与えられた仕事をこなしていく。
このままでいいのだろうか。

自然の中に身を任せていると自分自身も生物の一員なのだとあらためて思うことがある。
容赦なく降り続ける雨、丸い地平線、今にも落ちてきそうな夜空の星。
どれもが、人間のスケールを超えた大きなものに見えてくる。
日々、会社の中で思い悩んでいることがとてもちっぽけなことに思えてくる。
目先のことだけではなく、自分自身を見つめ遠くを見ようじゃないかと自分を叱咤したくなってくる。

自然の力は大きいのである。

足もとを見つめながら着実にやろう!という気持ちと、遠くをしっかり見定めよう!という気持ちがたまたま一緒になってしまった。

30歳までは吸収の日々、30歳から40歳までは吸収と吐き出しの日々、40歳から50歳までは吐き出しの日々、そして50歳からは山にこもって仙人的建築家生活。
と社会人1年生の時に決めた人生の白図があった。

八丈島で自分が生物に戻ってしまったそのころ、ちょうど30歳を迎えていた。
そろそろ自分で決めた転機である。仕切なおして出直そうと思った。
吸収することだけでは飽きたらなくなってきていたところだった。

吸収することはまだまだ続けるけれど、吐き出すこととはなんなのか考えるようになった。
基本的には、社会貢献できることであることの様な気がした。

自分の少ない経験で社会貢献できることといったら何があるだろう。
男30歳といってもまだまだヒヨッコである。
少なくとも建築の世界では、50歳までは、見習いである。
50歳を過ぎた頃から経験と判断力が熟しはじめて、肩の力が抜けた良いものが出来るようになるといわれる。
建築を武器に社会貢献とは、まだまだおこがましい様である。

いろいろ考えた。いっそ今まで建築的なことや商業施設の開発的なことを吸収してきたけれど、自然に抱かれて生計を立ててみたいので第一次産業の道に進もうかとも考えた。
農業、漁業、林業。体力勝負の男らしい職業に見えた。
中でもイート・フィッシャーでもある私としては、漁師の道を真剣に考えた。

一方、せっかく10年以上建築的なことに携わってきたのだから、その道を全うしないのはもったいないという思いもあった。
10年続けているとひとつのスタイルができあがるといわれている。
もうそろそろ自分なりのスタイルが見えてくる頃である。やはり、もったいないような気がした。

自然と共存の上になり立つ漁師、かたや自然に立ち向かう建築家(いや、自然を壊す建築業)。
相いれない指向性を持った職業に思えてきた。
自然と共に生きていきたい人間が、建築を生業として生きていく。
何となく矛盾している。
こんな人間がすぐに活動できる場は当時まだ少なかった。
今でこそ、環境問題やハウス・シックの解決法が求められるようになったが、自分がT社で担当していた仕事の中でもそのような仕事はなかった。

しかし、少しだけ見えてきた。青い海を見ながら、心地よい風に吹かれて、人間が生物に戻れる瞬間がいかに素晴らしいことであるか。
自然の中で、人間らしさを取り戻すことが、いかに前向きに生きていくことに必要なことか。
そんなことを自分なりに解釈して日々の設計活動に生かしていこうと考えたのである。
やることは、たくさんあった。
環境保護活動、自然と建築の接点探し。


吸収は、建築。
吐き出しは、自分の持っている自然感。
自然の持っている素晴らしさを伝えることは、30歳の私にも出来る。そう決めた。
そう決めると、以外と見えてきた。T社の業務の中にも自分を行かせる仕事が時たま出てきた。

1992年、夏だった。
 
幕張の新興オフィスビル街の一角に巨大なオフィスビルの計画があった。
私の担当は、そのビル自体の全体環境の方向性を提案し、ビルのデザイン的性格を決定していくという仕事だった。

今でも覚えている。
たまたまニュースで幕張の埋立地が整備されていき、南方からやってくる「コアジサシ」という渡り鳥の繁殖地が激減していると報道された。
私が担当していた幕張のオフィス・ビルのあたりらしかった。
すぐに次の日、TBSのそのニュースの担当者を訪ねた。
「昨日のコアジサシ・ビデオ・テープを貸してください。」理由を話すと担当者は快く貸してくれた。

その足で、環境庁を訪ねた。
昨日報道された「コアジサシ」の件を話し、内容の裏付けを取った。
確かにほんとうらしい。
その日、会社に戻り「日本野鳥の会」に問い合わせ、人工的に「コアジサシ」を繁殖させることは出来ないかを訪ねた。
できるらしい。
取り急ぎ資料をまとめた。

翌週、そのオフィスビルのデザイン会議の時に、収集したビデオなどの情報や具体的にデザインに取り入れる方法論をプレゼンテーションした。
会議の席上、列席者の中で反対する人はいなかった。

人間のために水辺をビル環境の中に取り入れることはあっても「渡り鳥」のために水辺を取り入れることはなかったはずである。
それも人間と水辺をある程度隔離し、人間の気配を取りたちに感じさせないようにするのが肝心らしかった。
そうなると誰のための水辺なのかということになってくる。

勿論それは、「コアジサシ」のためだった。
反対者はいなかったものの我々の提案は、やがて人間のための水辺に少しずつ姿を変えていったようだった。
我々は、提案レベルでそのプロジェクトの役割は終了したので結末は見ていない。

しかし、そのプレゼンテーションの時に列席した人たちに何らか時流のパラダイムシフトを感じていただけたに違いないと信じている。

また、ちょうどそのころ、某旧国鉄の開発担当社へ向けての社員研修の講師の依頼が来た。
私の担当は、環境計画の実戦という講義内容だった。

その時私は、私が得意とする小規模の店舗開発の進め方から大規模なランドスケープの開発の進め方を約2時間程度にわたって講義を行った。
大規模な開発の話では、地球の環境をいかにして改善していくかというような話を先進事例を紹介しながら行った。
地球を守ろうとかいうのは、おこがましい。
地球は自ら自己治癒能力を備えているので、人間は今以上に環境が悪化しないような努力をしなければならない。
また、都市部では、森林や雑木林が減り、ヒートアイランド現象がおこっている。
そのことによる弊害が、人間の体までをむしばんでいる。
だから、都市部にこそ緑を増やさなければいけない。ビルの屋根には、緑を。
大きな通りには、並木を。
都市全体に緑を増やすことが、地球と人間を共存させるひとつの方法だ。
と力説した。

私の講義が終わり、その他の講義もいくつか行われたあとで開発計画の課題が与えられた。
私は、講義を行っただけでその場をあとにしたが、課題の結果は、30人ぐらい研修者がいたが、ほとんど全員、敷地いっぱいに緑を埋めこんだらしい。
中には、課題の敷地が大阪駅の裏という設定にもかかわらず、動物園を計画した方もいたらしい。

その話をあとから聞いて、私はうれしかった。

一度は、デザイン賞をいただき天狗になって足もとをすくわれた。
しかし、自分の役割に気付き、一歩一歩自分らしさを吐き出し始めた。
吸収することに専念していたときとは違い、手応えを感じた。

「コアジサシ」、「都市に緑を」どれも敏感に反応してきた。
自分の考え方に賛同してくれたのである。

このころ天狗になっていた頃とは違う自信がすこしずつ沸いてきた。
また、心地よい自然の中で遊び続けたい私自身の建築を通じてのメッセージが少しずつ周りに伝わり始めてきた。
自分自身の道を『自信』と『自身』で切り開いていくことが、愉しくなり始めていった。

つづく。

平成9年7月 大潮


あとがき

ああ、なつかしくも、つらく、楽しい日々。

今となっては、懐かしく感じられるが、当時は真剣にもがいていた。
今の私を形づける基礎となった話なのである。

今も、かわらず、おなじ基盤の上で、もがき苦しんでいる。

2000.07.10

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