1993年、秋。バブルがはじけた後の不況のまっただ中だった。
私の勤めていた企業でリストラがあった。
1157人の社員に対し、250名希望退職者を募った。
1/4弱の社員を整理したいとのことだった。条件が提示された。

いくつかの条件の中で、ある条件がひときわ輝いて見えた。
当時私は、その会社に借金をしていた。
退職金を全てつぎ込まないとその会社から逃れることが出来なかったのである。
別にその会社から逃れる必要はなかったのだけど、そういう意味で自由がきかないことに不満を感じていた。

「希望退職者には、退職金を2倍支給」
とっても輝いて見えた。
それまでの不自由が一気に消えて行くかのようだった。

すぐに手を挙げた。
かといって、それから先の保証は何もなかった。
しかし、保証の代わりに自由を手に入れることを選んだ。
30歳をめどに仕事のスタンスを自分なりにシフトしていこうと決めていた。
何度もこのエッセイに書いてきたことだが、30歳までは、吸収。
30歳を過ぎたら、吸収と吐き出し。
この吐き出しが、自分自身の存在証明だった。
その当時、私は32歳。
その吐き出しの反応に少し不満を感じていた。


ある長期プロジェクトだった。
クライアントの担当者とは、もうかれこれ4年ぐらいのつき合いになっていた。
ある程度気心も知れ、こちらの熱意や力量も充分知っていた。
企業と企業のビジネスとはいえ、やはり担当者レベルで歩調が合わないとプロジェクトは成功はしない。
歩調は充分あっていた。

それまでは「佐山さん、佐山さん」と私のことを名前で呼んでいた。
しかし、ある問題を真剣に議論しているときだった。
お互いに一歩も引かずに平行線をたどっていた。
そのプロジェクトにとってよかれと思うことをお互いに議論していた。
突然、「ねえ、T社さん。君の言っていることはわかるけどねえ。」と言われガックリしてしまった。

また、別のプロジェクトでも同じようなことがあった。
こちらのイメージ提案の内容をクライアントに説得するために、自分なりの考え方をかなりの量の企画書にまとめ、理詰めでプレゼンテーションに望んでいった。
ひとしきり説明がすんで、相手の反応を待った。
何か相手の顔色がおかしいのである。
「あなたの言っていることはわかるけど、いつものT社さんのイメージ提案でいいんだよ。」
そんな理論展開をお宅の会社になんか頼んでいるわけではない。
そんなのは10年早いんだ。といいたげな様子だった。

それらの瞬間、企業の一員であることの再認識と企業の一員であることの限界を感じてしまったのである。
結局、自分の存在証明を得るために自分なりのやり方なり考え方で進めていくためには企業にいては限界があるのである。
なぜならば、クライアントは私個人に仕事を依頼しているわけではなく、あくまでもT社という企業に仕事を依頼しているからなのである。
時と場合で、個人の顔は邪魔な場合がでてくるのだ。
こちらは、T社に所属しながら、一人の人間「佐山」として、そのプロジェクトにとって一番よかれと思っている内容を提案する。
しかし、時と場合によって、佐山個人の顔が邪魔になってくる場合もあるということらしい。


また、こんな経験も積んだ。
別のビック・プロジェクトでの話である。
ある日本の商業施設の建築設計者として世界でも有名なアメリカの建築家が参加するというプロジェクトだった。
こちらは、日本の商業施設設計のプロとしてプロジェクトに参加していた。
そのアメリカの建築家は、そのプロジェクトの事業主であるN社の社長が気に入って、そのプロジェクトに参加させたという前ふりだった。

プロジェクトが進むにつれて、やはり斬新なデザインの建築全体像が現れてきた。
N社の社長もそのデザインが気に入ってご満悦な様子だった。
そのプロジェクトでは、その建築家が基本設計までを担当し、それから先の業務は施工を担当する日本のゼネコンと私の所属するT社で受け持つことになっていた。
進行するにつれて、斬新なデザインのために事業費がかなり膨らんでいった。
実施設計以降を担当するゼネコンとT社で再三に渡り、コストコントロールを重ねていったが、はるかに予算をオーバーするものとなってしまった。

もうコスト的に調整がきかない段階まで行き着いた時点の全体会議の席上で、実行部隊側は、そのアメリカの建築家にデザイン変更を求めた。
帰ってきた言葉を聞いて、愕然とした。
「それなら、なぜ私を建築家として選んだのだね。」
「私のデザインがほしくて、私を指名したのではないのか。」
つまり、彼のデザインでやる以上は、もっと予算を計上しろ、それができないのであれば、私は降りると言いたかったらしい。

N社の社長は、腕組みをして黙っていた。
その建築家の個性、つまりその建築家の顔で仕事をしている以上、そのキャラクターを大切にしてくれと言うことなのだ。
そこのところを理解しないで仕事を依頼するな。ということらしい。

いろいろと経験を積むうちに、クライアントのために全力投球しそれに応えるためには、やはり自分自身で仕事を請け負うしかないのかと思うようになっていった。
まだまだ、未熟者ではあるけども、佐山個人のキャラクターを理解し、佐山個人に期待してくれるクライアントに対して全力投球していくことで自身の存在証明を得ていこうと考える様になっていった。

そこで、退職金倍支給のリストラがあったのである。
私には、「渡りに船」と感じた。
すぐに手を挙げ、何の保証もない力の世界に飛び出していったのである。
自分で引いた、生きていくためのレールに沿って、より充実した「吸収と吐き出し」の日々を重ねるために、いよいよ自ら喜んで飛び出していったのである。

つづく。
平成9年8月  小潮

あとがき

一回こっきりの人生なのだ。
自分に対して、「正直に」生きていこうと思った。
楽な道ではないけれど、直球勝負でいきたかった。

やはり、建築設計をするものは、「生きる」ことを真剣に楽しまなければ、つとまらないと考えていた。
建築って、すまいも、オフィスも学校もお店もすべてみんな「人間の第3の皮膚」なのだ。
そこで、どういう営みがおこなわれて、なにが不足で何が無駄なのかを理解体験するには、その空間を楽しまなければならないのだと思っている。

よく写真とかですごくカッコ良く写っている空間を見に行くと、がっかりすることがしょっちゅうある。
いい意味での生活感がなかったり、いとなみの姿が見えなかったり、空間が美しく歳を取っていなかったり。
やはり、日々の生活をサポートするのが、建築のあるべき姿だと考える。

そうすると、朝から晩まで会社にいて、家には帰って寝るだけではイカン!と単純に思ってしまって、会社を辞めてしまった。
日々の生活をしっかりと楽しむことが、自分の建築キャラクターを成長させる回り道と勝手に決め込み、今に至っているのだ。

その「思いこみ」は、いまのところ大きく間違ってはいないようだ。

2000.09.25

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