私がすまいを設計するときに大切にしている視点は自然とのつきあい方だ。

太陽、風、雨、猛威を振るうこともあるが、恩恵を受けることも多い。郊外の場合、それほど自然に飢えることもないが、都市部の密集地では、些細な自然も貴重になるものだ。一般的な建築行為は、自然界と縁を切り、人工的な制御装置によって適材適所な場所をつくることであるといえるだろう。自然界と縁を切ることが基本でありながら、自然とつきあいたいというのは、身勝手でわがままな視点である。そんな視点を芯に据えながら、いきものである人間のすみかを模索している。

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一般的な住宅地で自然界ともっとも密接な場所は、空である。眺望が抜けている敷地の場合は、その眺望を軸にプランを組み立てるが、そうでない場合は空に注目することが多い。隣地境界線で切り取られた平面には限りがあるが、宇宙にまでつながる敷地の上の空は無限の可能性を感じるのだ。

そんな理由で、屋上のあるすまいを積極的につくってきた。ある時ふと、コルビジェは70年以上も前に使うための屋根として屋上庭園を発想していることを思い出した。あらためてコルビジェをひもといてみると、5原則なるものが初期の段階で定義つけられていた。それらは、乱暴ながらも一言でくくると「自然と伝統から普遍性を模索する現代的手法」というらしい。屋上庭園、自由な平面、横長の窓、自由な立面、ピロティは、自然と積極的に関わるための仕掛けと読みかえてもいいらしいということがわかった。屋上のみならずピロティに関しても、コルビジェを再認識する前から、意識して自然操作のためのしつらえとして取り入れていた。

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目から鱗が落ちた。
私が、都市や住宅密集地の中で、なんとか「我が家の自然」を手にしようと模索していたことが、コルビジェによって70年以上も前に試行錯誤完了そして定義付けされていたのだ。マス大学でろくに勉強もせず可もなく不可もなく卒業していった「ところてん学生」が幸いして、実務でもがいているときに出会えたのは、大きな収穫だった。現代にも引き継がれている歴史の一部としてのみ学んでいたならば、知識の引き出しにしまわれてしまうだけだっただろう。絶妙なタイミングで、忽然と私の前にコルビジェが現れたのである。


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一方、現在、一般的な生活者がすまいを手にしようとした時に、あらゆる意味で一番近い構造素材は木であると考えている。いきものが生息するための素材、身の丈融資で入手可能な素材、日本古来からなじみのある素材、どれをとっても庶民にふさわしいと考える。理想的には、可能な限り建築地域周辺の木で仕立てていきたい。「カネ・もの・こと」の地域循環である。地域の素材を使い、地域の職人さんが技能を駆使し、地域にお金がストックされることで総合的に地域が豊かになっていく。流通が発達した今では、地球の裏側からでも理想的な材料が手にはいる。しかし、それではあしもとから腐っていくのが目に見えている。地域の伝統的なやり方で、地域の木を使っていくことは、目に見えない大きな可能性を秘めているのだ。


それらを頭の中でミキシングさせながら街を眺めているとあることに気がついた。5原則、なかでもピロティと木を組み合わせると「お寺」になるのだ。木の列柱で、床を持ち上げ、毅然と立っている。
それも日本の風土気候の中で、歴史を持って仁王立ちしているのだ。なあ〜んだと気が楽になった反面、なんとしても「コルビジェ」と「木」に取り組みたいと感じていた。それは、木を使って「自然と伝統から普遍性を模索する現代的手法」を見いだしたいからである。私がすまいを見据える状況の中で「木造でコルビジェる」ことは、もっとも刺激的で、格闘するにふさわしいテーマである。知識は、駆使して試行錯誤を繰り返さないと知恵に昇華しない。今、出会えたことで是非コルビジェを知恵にまで高めたいとたくらんでいる。

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