ちゃんと考えてみようと思った。まずは近親者の死。弟を私が幼稚園の時になくした。人が集まったのでお祭りだと喜んだらしい。次はおばあちゃんの死。大学生の時。私は東京。おばあちゃんは留萌。行かなかった。次はおじさん。香住と札幌まで見舞いに行った。苦しそうにのたうち回っていた。胃ガン。おふくろの妹の旦那さん。享年55歳。棺桶に釘を打つ前顔にさわった。鉄のように冷たかった。葉山出身サーフィン日本チャンピオンの佐久間さんの息子が亡くなった。今年の正月。お別れの会に行った。七里ヶ浜は涙雨でくれていた。そして、7/4。Tさんのお通夜。人が死ぬということは他人事でしかない。と思った。一生懸命考えてみても他人事。そう。ひとごとなのだ。一番近い私の弟のことでさえひとごとだったのだ。

ひとは死ぬ。交通事故。病気。寿命。それぞれあるだろう。ひとが死ぬという事象がある反面、ひとが生まれるということもある。ひとはどこからくるのだろう。そして、死んだらどこへ行くのだろう。少子化といわれる昨今。死んでいく人と生まれる人のバランスが崩れているのだろう。そのバランスは政府、会社、地域が背負うのだろうか?そんなモンではないと思う。もっと大きなバランスが働いて動かしているのだとしか思えない。大潮満月の時に人間の女性は出産することが多いことは皆知っているだろう。潮流を考えいつ何時に魚を狙うという作戦を釣り師が考えていることは皆知っているだろう。様々な事象は地球と月、その他の関係から成り立っているのは明白である。

そんなことを前提にひとが死ぬということを私は次へのステップと考えてみたい。おそらく、有識者はすでに言っているだろう。私なりの考えはこうだ。ひとの魂は輪廻するということ。肉体的には父親母親の遺伝子を受け継いでゆく。しかし、新しく生まれるこどもは全く誰かから予期せぬ魂(=個性)を引き取るのである。肉体を失った誰かの尊い魂を引き取るのではある。その引き渡す側、引き受ける側に全く選択権はない。ひとが死ぬ生まれるということはそういうことではないのだろうか。

なので、死ぬということは次へのステップと考えおめでたいことと扱うのは不謹慎なのだろうか。私はそうは思わない。

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