昨夜、いったん寝床に入るも「お別れと鎮魂の空間」が気になって起き出す。テーマが与えられてから2週間弱。頭の片隅から離れなかった。締め切りは今日。このまま出さずじまいか。えいやとまとめるか。日々の仕事と格闘しながら悶絶していた。コンペに採用されるかどうかよりも今の時点で考え方を整理しておくことが大切だとまとめにかかる。以下、まとめた内容。

●死についてどのように考えますか?

 「死ぬ」ということは、ステップアップのための通過点だと思います。肉体は死とともに終わりますが、魂は次に引き継がれる(輪廻する)と考えます。生前、苦楽をともにした人々との別れは共につらいもの。しかし、故人の更なるステップアップと考え、葬儀は残された皆で生前の故人を祝福する機会と考えたいと思います。

●一般的な葬儀場に対する考え
 
 今月はじめ(2006.07.04)仕事でお世話になった方が亡くなりました。企業のシンクタンクとして活躍されていた方なので多くの方々が通夜にいらっしゃいました。私は企業人としてよりも、起業家の先輩としてお付き合いしていましたので心底悔やみました。親族の方を前に焼香をしたあと、食事の席に通されました。それは先輩の遺体が安置されている場所から離れたホテルのラウンジのようなところでした。そばに遺体もなく、線香の臭いもせず、それは先輩の死を感じさせないようにしつらえられた味気ないオフィスの片隅のような場所でもありました。
 私としてはもっと生前の先輩を皆で偲び、ステップアップのお祝いをしてあげられるような空間のあり方はないものなのかと思いました。
 5年前に叔父を亡くしたときも、さっぱりとして線香臭さがなく事務的に思えました。そのような経験から、一般的な葬儀場は故人を想い祝うというよりも、早く忘れるための事務的な空間と手続きのように感じました。

●大切な人と最後を過ごしたい空間はどのような空間ですか?

 まずは、縁があって神奈川県で死ぬのならば、神奈川県らしい空間で最後を過ごしたいと思います。また、日本人として死んだのであれば畳の上で最後のお別れをしたいとも思います。それはいろんな想いが重なった畳は特別のものであり、室内では靴をぬぐというしっとりとした日本の固有空間の象徴でもあるからです。お産婆さんが来て子供が生まれる。おひな様を飾って節句を祝う。大広間で結婚式をする。葬式には皆が集まり、故人をしのぶ。すべての節目を知っているのは畳だったのではないでしょうか。

 また、日本の民家は暗いもの。しかし、暗さと光は一対でもあります。この世に生を受けるとき光の中に出てきます。死ぬときは暗い中に戻っていくのでしょうか。私にはわかりません。が、死ぬという特別の節目を祝う空間は「唯一の光と影」にあふれたものとすることで、残された皆は故人に集中して想いに浸ることができるのではないでしょうか。

 私が大切な人と最後を過ごすのは、故人に集中できるような光と影のあふれる畳の空間でありたいと思います。そこには、故人が生前大切にしていた「もの」「こと」をしつらえ、真の故人の姿を偲ぶ方々に伝えられるようにさりげなく工夫を凝らせたいと思います。

 私が死んだら、大好きだったジャズを真空管でBGMに、自慢げに黒鯛の魚拓を掲げ、芋焼酎と神奈川三浦産の魚で皆さんをもてなし、真の私という人間を皆様に知ってもらいたいと思いますが。自宅で死んでゆくことができなくなった今、少なくともまるで私宅の畳の上にいるかのようななかで、皆さんと最後の時を過ごしたいと思うのであります。

▼コンセプト・コラージュ

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夜更けから明け方にかけてこの考えをまとめ、朝ヤマトの当日便で提出。AM10:00が当日便の締め切りだ。AM10:40にヤマトの支店に持ち込む。「新宿への当日便?」「大丈夫ですよ〜〜!」「まだ、トラック来ていませんから」ほっとする。いつもならとっくにあきらめているところ。ねばることは大事なようだ。光が見えてくる。

もどると、相棒のさるこに「葬儀の時に流す曲をまとめておいてくださいね。☆」と。遺言は何度も書き直しながら、常に脇に置き精度をあげていくものらしい。そうだな、私の葬儀の時のBGM2006バージョンをつくっても良いかもしれないな。それって、毎年曲が変化してゆくものなのだろうか。不思議。そういえば、私の大切なお客様が一昨年亡くなった。その際は密葬だったので立ち会えなかったが、サザンのバラードでお祝いしたそうだ。やはり、輪廻のステップアップといっても悲しいな。愛しのエリーなんてBGMだとなおさらだ。

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