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昨日、夏休みと同じくして終了してしまう「伊東豊雄 建築|新しいリアル」の企画展を観てきた。葉山県立美術館別館。そこに勤めている奥さんが一枚優待券をくれた。私のパートナーである構造設計者の奥さんからの贈り物だ。

(誤解無きように。一般の方も理解できるように書きます。建築畑のひとだけを対象にしていません)
伊東豊雄さんは、若いときから自身の価値観でもって建築行為は経済行為ではなく本当の建築とはなんなのかを問い続けてきた希有の人と認識していた。この人は喰うためにはやっていないなと感じていた。馬込沢の家はむかし近所だったのでこっそり見に行ったのだが、これがなぜ?と思えるくらいに安藤さんの住吉のそれとはインパクト度合いが違っていた。

(白派=灯台。赤派=芸台。住宅建築の場合、白派の人よりも赤派の人の方が素人的には受けがよい模様。なぜなら、赤派が人にやさしいからだ。白派は人間への優しさより、人間の進むべき方向を試行錯誤していると思う)


葉山の神奈川県立美術館別館での展示であらためて白派の伊東豊雄さんを感じたのは、仙台メディアティークのコンペから彼は大きくむけたのだろうなということ。その後のむけ方、活躍の仕方はメディアで知っていたので正直今回の企画展は是が非でも観たいと思わなかったのだが、行って良かったと思わせる力がそこにあった。
東京大学卒の建築家は、芸大卒の建築家と肌合いが違い、はたまた私のような東京理科大の中途半端な割り切れない建築家と違い、すっきりきっぱり割り切ってしまう冷たい力強さだけがあるのかと思っていたが、伊東さんはもがき苦しむその創作活動も見え隠れしていた。通常のメディア(雑誌、TVなど)では知り得ることができない媒体力がそこにあったように感じた。へええ。伊東さんも大変な思いをして、確認申請もおろせないことがあるんだと生身の人間が共感できる時間がそこにあった。

白派の伊東さんのもがき苦しむ姿を見て、テーマとして掲げている「建築|新しいリアル」はなんだろうかと考えてみた。その展示にはありましたよ。その伊東さんなりの答えが。でも、私なりに考えてみた。
つい、10日ほど前、我が社の犬社員が闘病の末大往生した。朝、かみさんが大好きなご飯をやるとぺろっと食べた。かみさんが自分の手であげた。かみさんは食欲があるうちは生命体は死なないと思っていた。私は毎日弱っていきながら「もうだめだよとーちゃん」と訴える目を見ていた。ごちそうを朝腹一杯いっぱい食べたその午後我が社の春呼は死んだ。死んだことは事実なのだが、我が社のこのホームページには今でも春呼は掲載されている。

これは新しいリアルだと思う。我が犬社員春呼が死んで個体は無くなったとしても映像はネット社会で生きている。私が当時春呼と造った時間はそのまま生きている。個体はなくなってもその時間と想い出は凍結状態で活きている。新しいリアルではないか。生きるもの死ぬもの。もしかして死ぬものの新しいリアルがあるのではないか。

私は死んだことがないので想定するしかないが、死んだ後もたまには思い出してくれて、「あの人(犬)は、ああだったよねえ。」「そうだったよねえ」と思い出してくれるような人(犬)でありたいなあと思うのが自然だ。そういう意味では、このサイトの中で、春呼が生きていて、そのサイトに訪れてくれた人が春呼を思い出してくれて。
これは、「新しいリアル」だと思う。

墓参りに行くようにネットでかつての姿を再度見てさらに思う。

新しいリアル。
それって、先祖から受け継いできたことを今のやり方でしっかり受け継いで行くことなのだろうなとおもう。 
私も建築で「新しいリアル」を探っていこうと思う。
新しいことだけが最良だとは思わないけど...

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