//////////////  この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえ る大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月)   ///////////////


私が10歳の時であったその時、私は弟二人と生まれて間もない妹と三人で遊んで いた。遠くの方からゴーという音が だんだん近づき大きな音とともに家が揺れ出して、大きな津波に呑み込まれるような感じだった。そのうちに揺れは益々はげしくなり、箪笥の上の物や回りのい ろいろな物が音をたてて落下、壁も私達の背中へ落ちてきて、その埃で真っ白になった。

 外では前の家の屋根瓦がガラガラとずり落ちて大き な音をたて、ガラス戸が外れてガチャガチャと恐ろしい音が心臓 に突き刺さるような思いがし、生きた心地もしなかった。そんな中で母は子供達を箪笥の所へ連れて行き、抱くようにして「クワバラ、クワバラ...」と何度 も唱えていた。

 「少し揺れが収まってきたら外に出よう。」といっていたら、また大きな揺り返しが来て、その大きな揺れで近くの大 きな家が倒れたと同時に、人の悲鳴が聞こえて来た。それから外が前にも増して騒がしくなり、早く外へ飛び出したかった。やっと揺れも少しは収まって来たので、母は「外へ出よう。」と言い、落下物や他の障害物に気を配りながらやっと外へ出た。

 行く先は、いつも私達が遊んでいる広場で、道を つぶれた家がふさぎ通れず回り道をして広場に着いた。もう大勢の人達が恐怖の顔をして集まっていた。その後も何回かの揺れはあったが、いくらか落ち着きを取り戻した。ふと気が付くとちょうど昼食どきのことで、火を焚 き、消さずにとび出して来た人もあり、今度は火災で大騒ぎとなった。

 ほとんどの男の大人は仕事に出ていて、家に居たのは女、子供ばかりでどうしようもなく夕方になる。働きに出ていた人達は交通は途絶えて歩いて帰るより仕方がなかった。

 暗くなるにつれ発生した火災が、火勢を増し広がって、真っ赤な空が覆いかぶさり、夜になるほど近くに感じてきた。そんな時仕事先からやっと帰った父が避難しようと言った。

  一家は父の言葉に従い、避難する事になり、父は夜具を、母は僅かばかりの着替えを背負い、私は七月に生まれたば かりの妹を背に、手を取り合って真っ暗な道を総武線の線路をつたい、中川と荒川を渡り、新小岩という所へ避難した。周りはハス田と雑草の湿地帯であったが、地割れの心配もないからとそこに決めた。近くにあった木材を敷き、皆疲れていたので、それでも寝る事が出来た。

 どの位時間が経ったのか夜中に人声で目を覚ますと、鉢巻きをした男達が何人か、手に竹槍や日本刀鎌などを持っ て、みんなの顔を提灯で照らして何かを探している。後に分かった事は、朝鮮人が暴動を起こして井戸の中へ毒を入れたり、火をつけて歩いたりで、日本人に仕返しをしていると聞いたが、本当の事は分からないが、でもそんな騒ぎで、大勢の朝鮮人が訳もなく犠牲になったことはそんな混乱の時に起こった。流言飛語が余計な混乱を引き起こすことになった。

 その夜、本所周辺は火の海と化した。特に陸軍被服廠跡地は墨田川もあり広いので、たくさんの人達が逃げ込んだ。 持ち込んだ荷物に火が着き、周りは火の海で、その中でなくなった人は山の様だった。墨田川も、熱さにたまらず川の中へ入り、折り重なって亡くなっていた。 火勢が強くなると風も強くなり、猛火となって天を焦がした。明るい夜が続いた。

 不安な夜が明けてみると、何組かの人達が避難していて賑やかになっていた。昼頃、やっといくらか落ち着き、玄米飯のおにぎりが配られ、私達はハスの葉を持ってもらいに行った。

 そんな二、三日がすぎて、ぼつぼつ帰宅する人達も増えて来たので、私達一家も帰ることにした。途中、小松川橋のたもとにはピストルをかまえた兵士が通る人々を凝視しているのが怖かった。恐怖と飢えの何日かに耐えた私の遠い思い出である。

 その後、倒壊した家や焼け跡から帝都復災エーゾエーゾと言う歌が流行しだした。



出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/

目次へ : 次のページへ


▼ コメントする

▼ サイト内検索                複数キーワードは半角スペースを挿入