//////////////  この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえ る大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月)   ///////////////


 私の下手な文章お目にとまり光栄です。浦辺正雄先生には浦賀小学校で大変お世話になりました。

 思えば実に当時の事、総べて感慨深い事が多く、私も己に82歳となり記憶も大半は失っておりますが、忘れられない貴重な体験は後世に残すのも有意義とは存じます。なにせ無知な私、加藤 勇氏にも再三お断りしたのですが、たっての言葉に書く羽目となり、下手な文章で今更後悔している次第ですが...。
 実は私事になりますが、昨年暮れにダイヤモンド婚を迎え、子や孫に下手な文章ではあったものの、自分史を書き、今の世と昔の相違等を書き記しプレゼントいたしました。それらを思い返しながら、ご希望に添えるかどうかわかりませんが、少々書きます故、御笑納下さい。

 私の一生で、忘れられない最大の事件のひとつがこの関東の大震災でした。

 桜の名所であった愛宕山公園の、港に面した一帯が一瞬にして崩落しました。蛇畠町内の大部分が埋没、全滅となり、住民の大半がその犠牲となり死亡した災害です。私の同級生もここで二人亡くなりました。

 その地域の中央部にあった東京への定期船の発着所も完全に埋没の憂き目を見てしまいました。

 今ではその崩れ落ちた土砂を利用して埋立てが行われ、谷戸の電電公社前辺りから川間の浦賀ドック分工場に至る海岸道路となりました。家並みも復旧し、今日の姿となりました。

 またドック原と言われていた個所についても、道路に迫っていた崖地が崩れ落ち、工場敷地の境界だったレンガ塀まで埋め尽くしました。ちょうど、通りあわせていた人らに犠牲者が出たとか、とにかく逃げる余裕のない状況下での事故だけに悲話の種は尽きません。

 当時私は浦賀小学校の高等科一年生でした。浦賀小学校も、また西叶神社の境内にあった分教場もつぶれ使用不能となりました。大津小学校の一部を借り、そこまで通って勉強したように覚えています。他の人の話では馬堀の射撃学校へ通った方もいらっしゃるそうですが。

 「福祉だより うらが」に載せた、浦賀港の地震直後は対岸まで歩いて行くことができたという思い出は、地震による地盤の上昇の結果と思っております。

平成5年3月31日



出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/


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