//////////////  この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえ る大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月)   ///////////////


 私は明治42年1月4日に久里浜村佐原で生まれた石川です。今回義兄の永嶋照之助さんの要望で関東震災の思い出を知らせてほしいと言われましたので、私の記憶の一端を申し上げ、参考になれば幸甚と思って居ります。


 私は大正12年4月から浦賀ドック木工課に見習工として入社しました。同年8月31日は夜から暴風になりまし た。次の日の1日10時には駆逐艦「初霜」の進水式を予定して居りました。風雨が強いので進水式が心配でした。幸い九時にはその風雨も去り晴天になり、進水 式は心配なく挙行が出来ました。進水作業の責任者の大島さんは、進水が終わると安心されてか家へ帰られたとの事でした。住居は愛宕山の下、家に居られたの で愛宕山の山崩れで埋まり亡くなられました。そのまま帰らずに会社に居られたら難にもあわずに済んだと思いましたが、人生は何時何処でどんな事故に会うか解かりません。思うと怖いものです。

 さて、私は11時から昼食時間なので昼食をして、屋外で寝転んで居りました。「ずしん」と強い音がすると同時に地震、立つ事が出来ないのです。その場で伏してしまいました。周囲を見ると各作業場が崩壊して騒いで居りました。幸い私は負傷もなく済みましたが、家の事 が心配になりました。しかし、余震、余震で歩くに不自由で困っておりました。そこへ先輩が来てくれて足をもんでくれたので足が軽くなりどうにか歩けるよう になりました。そして、辛うじてドックまで行きましたら、ドック前の山が崩れており通れません。どうしたらよいか思案したのですが、ドックの海岸方面に 5、6名の方が居られたので「どうなされますか。」と聞きました。「今ドックの係員の方と開通の打ち合わせに言っているが、わかるまで待ったほうが良 い。」と言われましたので、私も待つ事にしました。10分位経ちましたら「ドックの扉を閉めて通ることにした。」と言われました。こうして田中の常福寺入口 まで行きましたら、お産の方が一人で困っておられます。「貴女ひとりですか。」と聞きましたら、「母が来てくれる」と言われましたので、男では致し方あり ませんので去りました。路上での事なのでお気の毒でした。

 久比里坂へ行きましたらここも山崩れでしたので、その上を通って、へと行きました。すると、平作川の水が急流と なって海へ向かって流れておりました。それは地震で土地が1メートル以上も上がったのです。それまでは国道の所まで海だったので、ドックの貯木場になって いたのでした。そこで、私たちはハゼ釣りをして楽しんだものでした。地震後は水も浅くなり、貯木場にも出来なくなり、暫く放置されてありました。

 私たちも19日で後片付けも終わりました。私は家で野菜作り等をしながら、家に居りますと、「不逞朝鮮人が井戸 へ毒を入れた」とか、「津波があるから用心しろ」とかの情報で大変でした。翌年1月15日の余震は震度5もありましたので、これまた大騒ぎでした。しかし大した事もなく済みました。

 それから木工課の幹部の方は職人捜しに九州方面にまで行き、職人を10名ほど連れてこられ、仮設作業場造りに着工なされたとの事でした。しかし、何時出来るか分かりませんでした。10月末に、「11月10日から出勤するように」との知らせがありましたので、当日から出勤 しました。長いような短い日を過ごしました。

 木工の従業員は新造船の家具を製作して居りました。地震によって破損した家具が多いのでその修理をしたりで大変で、私も出勤して居りました。他の課の人は作業の見通しがつかないので、辞める人も多くなりました。

 木工課では貯木材をトラックで木工課へ運び始めましたら、になっていた木材の下部には大量のカキが付いて居りま したので、それを空缶で茹でて食べ、皆大喜びしました。残りは各人が家へ持って行き、適当に調理して食べられた様です。会社は十二月から平常運営になった様で、私は細部の事は分かりません。

 家を失った方は焼け野原と化した市内を知人を頼りに住む所を探し、苦労なされたようでした。私たちも家がありな がらも、余震が続きますので怖くて、家の中で寝る者はなくしばらくは野宿生活をしました。破損家庭では復旧したくも大工さんが不足、大工さんは木材が不 足、材木店では入手にこまり、お互いに苦労なされたのです。

 浦賀町役場へ行き、震災状況を尋ねましたら、浦賀地区内だけで、死者687人、負傷者897人、焼失家屋131、全壊戸数1169、半壊戸数1164でしたので、その多さに驚きました。

 この世で怖いのは、地震・雷・火事と言われて居りますが、地震、雷は人力では致し方ありません。その他にも災難がありますが、注意すれば何とか難なく済みます。

 昔から「生ある者は死す。」と言われて居ります。死に方に依って突然の事故で亡くなられた家族の方は永久に忘れられない事でしょうが、致し方ありません。強く明るく毎日を頑張っていくことが、故人へのご供養になるのではと思います。



出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/


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