////////////// この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえ る大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月) ///////////////
今から約70年前の大正12年9月1日の事、それは私が小学校3年生の時だった。
外遊びから帰り、昼食には少し早かったので1才の妹と昼寝をしていたら、突然、「ガタガタ」とすごい音がし、天井が落ち、壁も落ちて、目も開けられない状態だった。庭に出ようとしたが立てず、妹を片手に腹ばいしながら、やっと縁側まで出た。家が急角度に後ろに傾いていた。
今から約70年前の大正12年9月1日の事、それは私が小学校3年生の時だった。
外遊びから帰り、昼食には少し早かったので1才の妹と昼寝をしていたら、突然、「ガタガタ」とすごい音がし、天井が落ち、壁も落ちて、目も開けられない状態だった。庭に出ようとしたが立てず、妹を片手に腹ばいしながら、やっと縁側まで出た。家が急角度に後ろに傾いていた。
縁側に出たら、風呂桶が倒れお湯が一面に流れて風呂焚きのお手伝いさんが無我夢中でジャブジャブもがいていた。 姉が釜屋(台所)でご飯を炊いていたがとび出して来て、私に「火を見てきてくれ。」と言ったので、とんで行き見たら、お釜がそっくり落ちて火が消えてい た。兄が「馬が出ない。」と大声で叫んでいた。私は裸足のまま「馬が出ないよう!助けて。」と泣き乍ら近所をまわった。
家は全部つぶれていて、道路には10センチ程の地割れが出来、それもずっと長く続いていた。稲が一面にガサガサと音を立て揺れている。
助けに来てくれる人はひとりもいなかった。実はその朝、前の日に馬にけられて右足を折った父が戸板に乗せられ、近所のおじさん達に骨接ぎに担がれて行き、昼頃帰る予定だったのだ。昼過ぎ急いで戻ったおじさん達はさぞかしびっくりされたと思う。
それから本家の姉妹が家の下敷きになっていることを知り、近所のおじさん達はすぐ助けにかけつけて下さった。旧 家なので柱は太く厚い茅葺きの屋根。むしり取るのに手間がかかり、救出された時は妹の方はすでに死んでいたという。その作業から帰った一人のおじさんが馬 小屋に入って力いっぱい馬の尻をたたき、馬を出してくれた。驚いた馬はそのまま何処かへ行ってしまった。
日も西に傾いてきたのに、今度は弟(6才)がいないのに気づき、大声で名を呼び乍ら捜しまわったら、近くの小川でえびやかにをつかまえていたという。こんな大騒ぎを知らずけろりとしていたのには全くあきれた。
夕方になり、「オーイ迎えに来てくれ。」という兄の声が聞こえてきた。2、3人の人に迎えに行って貰った。兄は何処からか馬を連れて帰ってきた。
その晩は裏の孟宗薮で近所の3軒が野宿することにした。地震が起きる度に「マンゼ、マンゼ」と唱え小さくうずく まった。津波が来るというので海辺の人が続々と丘へ上って来た。それに「井戸へ毒薬を入れているから井戸水を飲んではいけない」という流言飛語が飛び、夜 は鎌や鍬、猟銃等を持って男は自警に出た。灯りはなく真っ暗闇。北の空は火災で真っ赤だった。余震は続き本当に身の縮む思いだった。
特に困ったのは、水が飲めないことだった。幸い裏山の麓から清水が湧き出てきたというので、そこから水を汲んできた。また用便も家に入れないので私は道路の割れ目ですませ、そこそこに立ち戻った。夕方や朝早いときは、人通りは全くなかった。
学校は全壊のため当分休みということだったが、高等科の生徒は倒れた校舎の片付けを手伝うため毎日半日位ずつ登 校していた。9月26日からやっと始業、近くの桃畑にござを敷き、各自持ってきた座布団に座り、石油箱を机の代わりにして読み方(国語)、算術(算数) の2教科を2時間ほど習って帰ってきた。雨の日は休校だった。仮校舎は翌年の1月始めに屋根だけふくことができたが、そのまた15日の早朝の震度7.2の 強震で傾いてしまい、3月の終わり頃になってやっと校舎に入ることが出来た。
大地震の怖さをはじめて知り、今に至る迄も忘れることはできない。参考までに次の表を付記しました。これは北下浦地区の統計です。
震災の被害状況 (北下浦村において)
(1)回数(大きな地震)
1日 午後1時まで 7回
夕方まで 3回
夜中12時まで 108回
2日 96回
3日 59回
10日までの合計 1197回
(2)被害状況(当時の戸数 655戸 人口4117人)
倒壊家屋 167戸
半壊家屋 147戸
死者 19人
負傷者 101人
出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/
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家は全部つぶれていて、道路には10センチ程の地割れが出来、それもずっと長く続いていた。稲が一面にガサガサと音を立て揺れている。
助けに来てくれる人はひとりもいなかった。実はその朝、前の日に馬にけられて右足を折った父が戸板に乗せられ、近所のおじさん達に骨接ぎに担がれて行き、昼頃帰る予定だったのだ。昼過ぎ急いで戻ったおじさん達はさぞかしびっくりされたと思う。
それから本家の姉妹が家の下敷きになっていることを知り、近所のおじさん達はすぐ助けにかけつけて下さった。旧 家なので柱は太く厚い茅葺きの屋根。むしり取るのに手間がかかり、救出された時は妹の方はすでに死んでいたという。その作業から帰った一人のおじさんが馬 小屋に入って力いっぱい馬の尻をたたき、馬を出してくれた。驚いた馬はそのまま何処かへ行ってしまった。
日も西に傾いてきたのに、今度は弟(6才)がいないのに気づき、大声で名を呼び乍ら捜しまわったら、近くの小川でえびやかにをつかまえていたという。こんな大騒ぎを知らずけろりとしていたのには全くあきれた。
夕方になり、「オーイ迎えに来てくれ。」という兄の声が聞こえてきた。2、3人の人に迎えに行って貰った。兄は何処からか馬を連れて帰ってきた。
その晩は裏の孟宗薮で近所の3軒が野宿することにした。地震が起きる度に「マンゼ、マンゼ」と唱え小さくうずく まった。津波が来るというので海辺の人が続々と丘へ上って来た。それに「井戸へ毒薬を入れているから井戸水を飲んではいけない」という流言飛語が飛び、夜 は鎌や鍬、猟銃等を持って男は自警に出た。灯りはなく真っ暗闇。北の空は火災で真っ赤だった。余震は続き本当に身の縮む思いだった。
特に困ったのは、水が飲めないことだった。幸い裏山の麓から清水が湧き出てきたというので、そこから水を汲んできた。また用便も家に入れないので私は道路の割れ目ですませ、そこそこに立ち戻った。夕方や朝早いときは、人通りは全くなかった。
学校は全壊のため当分休みということだったが、高等科の生徒は倒れた校舎の片付けを手伝うため毎日半日位ずつ登 校していた。9月26日からやっと始業、近くの桃畑にござを敷き、各自持ってきた座布団に座り、石油箱を机の代わりにして読み方(国語)、算術(算数) の2教科を2時間ほど習って帰ってきた。雨の日は休校だった。仮校舎は翌年の1月始めに屋根だけふくことができたが、そのまた15日の早朝の震度7.2の 強震で傾いてしまい、3月の終わり頃になってやっと校舎に入ることが出来た。
大地震の怖さをはじめて知り、今に至る迄も忘れることはできない。参考までに次の表を付記しました。これは北下浦地区の統計です。
震災の被害状況 (北下浦村において)
(1)回数(大きな地震)
1日 午後1時まで 7回
夕方まで 3回
夜中12時まで 108回
2日 96回
3日 59回
10日までの合計 1197回
(2)被害状況(当時の戸数 655戸 人口4117人)
倒壊家屋 167戸
半壊家屋 147戸
死者 19人
負傷者 101人
出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/
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