////////////// この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえ る大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月) ///////////////
地震だ。時まさに大正12年9月1日の事でした。
何分か経て、ふと気が付くと、台所のいろりの側にいたはずの私は縁側をとび越えて、 屋外の土間に座り、箸を片手に堅く握っているではありませんか。無我夢中だったのでしょう。我にかえってふと辺りを見回すと馬屋の「マワシ」が3本とも外 れて内側では馬も余りにも恐ろしい出来事に驚いてか、奥にうずくまり、何時とび出すかわからない状態ではありませんか。
地震だ。時まさに大正12年9月1日の事でした。
何分か経て、ふと気が付くと、台所のいろりの側にいたはずの私は縁側をとび越えて、 屋外の土間に座り、箸を片手に堅く握っているではありませんか。無我夢中だったのでしょう。我にかえってふと辺りを見回すと馬屋の「マワシ」が3本とも外 れて内側では馬も余りにも恐ろしい出来事に驚いてか、奥にうずくまり、何時とび出すかわからない状態ではありませんか。
恐る恐る馬屋へ行き「マワシ」を取り付けました。
さて今日、自分は何をする予定だったのか。振り返ってみればおふくろと2人で、早昼飯をすませ、宮川(今の三浦市内)のお宮の御遷宮へ行き投餅を拾いに行く事に予定していたのですが、そんなことは一切取り止めになったのでした。
その晩は余震がまだひっきりなしに続いていたので家には入らず竹薮で野宿し3日程を過ごしました。
その時警防団からの連絡で、朝鮮人が攻めて来るとの事であった。
そこで兄貴は警防団へ、父は家への通路に縄を張り、非常の場合には金の洗面器をたたいて家族に知らせることにしました。
緊張しながら私も子供ながらにも任務についたのでした。しかしこれは結局は朝鮮人ではなく、横浜の刑務所の囚人が逃げ出したとの事であった。
みんなは竹薮に野宿したが、兄貴の子供3人と私の4人は倉の2階で外の動きを警戒しながら一夜をあかした。
またこんな事もありました。初声村「おいせ山」の杉の木に囚人が登っているのを警防団の人に見つけられ、猟銃でおどされたので降りてきて、降参し逮捕されました。
一方菊名の方では夜中、年寄りの人が道路を歩いていて誰何されたのに応答しなかったために竹槍でつき殺されたとの話もありました。
地震直後は津波が来ると警戒して、海辺には近寄る事はしませんでしたが、1時間以上経っても何も変化がなかったので、大人の人達が相談して、千葉の親戚へ避難するつもりで海岸へ行った所、そこへ大津波が来襲、この波に呑み込まれ、全員が200メートル以上も流されたとの事。
田圃の中へ舟や壊れた家の残骸が散乱しているのを見て、先生はじめクラスの仲間みんなは津波の恐ろしさに驚いた次第でした。
その後私達は津波の犠牲となった鈴木竹蔵君の冥福を祈って学校へと帰りました。
当時の住所は南下浦村上宮田2、744でした。また小学校高等科1年生の時の事でした。
出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/
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さて今日、自分は何をする予定だったのか。振り返ってみればおふくろと2人で、早昼飯をすませ、宮川(今の三浦市内)のお宮の御遷宮へ行き投餅を拾いに行く事に予定していたのですが、そんなことは一切取り止めになったのでした。
その晩は余震がまだひっきりなしに続いていたので家には入らず竹薮で野宿し3日程を過ごしました。
その時警防団からの連絡で、朝鮮人が攻めて来るとの事であった。
そこで兄貴は警防団へ、父は家への通路に縄を張り、非常の場合には金の洗面器をたたいて家族に知らせることにしました。
緊張しながら私も子供ながらにも任務についたのでした。しかしこれは結局は朝鮮人ではなく、横浜の刑務所の囚人が逃げ出したとの事であった。
みんなは竹薮に野宿したが、兄貴の子供3人と私の4人は倉の2階で外の動きを警戒しながら一夜をあかした。
またこんな事もありました。初声村「おいせ山」の杉の木に囚人が登っているのを警防団の人に見つけられ、猟銃でおどされたので降りてきて、降参し逮捕されました。
一方菊名の方では夜中、年寄りの人が道路を歩いていて誰何されたのに応答しなかったために竹槍でつき殺されたとの話もありました。
地震直後は津波が来ると警戒して、海辺には近寄る事はしませんでしたが、1時間以上経っても何も変化がなかったので、大人の人達が相談して、千葉の親戚へ避難するつもりで海岸へ行った所、そこへ大津波が来襲、この波に呑み込まれ、全員が200メートル以上も流されたとの事。
田圃の中へ舟や壊れた家の残骸が散乱しているのを見て、先生はじめクラスの仲間みんなは津波の恐ろしさに驚いた次第でした。
その後私達は津波の犠牲となった鈴木竹蔵君の冥福を祈って学校へと帰りました。
当時の住所は南下浦村上宮田2、744でした。また小学校高等科1年生の時の事でした。
出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
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