//////////////  この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえ る大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月)   ///////////////


 大正12年(1923年)9月1日午前11時58分私達鎌倉師範の運動部員は寄宿舎に合宿して、夏期練習をしていた。

 昼食をして、パンツ一つで数人で寄宿舎の畳に寝転んでいると、突然恐ろしく揺れる。
 外を見れば、前の寄宿舎も倒れんばかりの大揺れ、屋根瓦はぽんぽん落ちる。私は何がなんだかわからない状態。窓をあけて外にとび出そうとすると、三宮が 「馬鹿、あの瓦が当たったらどうなる。机の下にもぐれ!」と大声で叫ぶので、「そうだ。」と気がついて、しばらくそのままにしていると、少し揺れが遠のい たので、裏口から外に出る。道を隔てた農家が倒れて地上に押しつぶされた梁の下で「助けて!」という老婆の悲鳴がするので、重い梁をやっと取り除いて助け 出す。

 急いで表の校庭に走った。

 寄宿舎の四棟も校舎も少々傾いた程度であったが、少し離れた化学教室から火花と炎があがっているので、数人で消し止めた。

 さて、先生方のお宅は、と各運動部の5、60人は手分けをして、町内の先生方の家に行った。

 私は昨年退職して静養しておられる里村勝次郎先生宅に行った。奥様が半壊の家に呆然としておられた。お話によると、先生はずっと座敷に寝ておられた所、この地震。奥様は直ちに先生を起こして手を引いて玄関を出ようとすると、余震、先生は奥様の肩を突きとばして外に出された瞬間、玄関の梁が落ちてきて先生は そのまま押しつぶされて亡くなられたという。先生は病体の自分より奥様を!という夫婦の愛情によってのことかと、私は先生の遺体に合掌して去った。

 町内はと、余震の合間をみて寄宿舎に入り、シャツ、運動靴を持ち出して、段葛から、由比ガ浜、長谷の方を駆け巡った。

 八幡様は社前の石段に屋根がぺしゃんこになって、覆いかぶさっている。段葛の両側の家々は皆半壊、石の二の鳥居は柱が折れてしまう。由比ガ浜では当時「近 代の恋愛観」の著作で有名な厨川白村先生が自宅付近の海岸で橋もろ共、上流に押し流されて、一命を落とされたということを誰からともなく聞いた。

 地震に伴う火災は鎌倉付近から長谷の方にかけてひどかった。

 金子 晋著「鎌倉回想50年」には次のように書いてある。

 『...商売で火を使っていた家もあったろうし、昼時になれば炭火に鍋をかけていた家もあったろう事だから・・・。とにかく壮絶を極めた火焔と黒煙が駅前の家並みをなめるように焼き尽くしていった事には間違いなかった。この時、世にも恐ろしい情景が眼前に起こった。それは今とは違って輸送機関の中心が人馬に頼った当時の事とて、をどよもす地鳴りと、家々の崩壊する響音と、渦巻く火焔に、驚いた使役の馬が、発狂の態で廣場に暴れ狂い出し、人々が「あれよ。あれ よ。」と眼を見張った寸時の後、衆人への危害を思って、馬丁達が次から次へと荒れ狂う馬を捕らえての撲殺。少年の私は眼をおおい、末期のいななきを耳にし ながら、せっぱつまった感情に押しつぶされる思いであった。』

 『...鎌倉は関東大震災中最大の厄を受けた。当時の全戸数4138中3004戸が全半壊、全焼した家443、津波による流失113、死亡した人413、重傷を負った人341と記録に残っている。』と。

 この夜、私は学校の庭で一夜を過ごした。余震は続くが、これは何かということは誰もわからなかった。平塚の海軍火薬工廠の爆発かというのが大方の見方だった。

 広い校庭には八幡通りの病院、養生院の入院患者がテントを張った中にいるだけで、同じように避難していた町内の人達は一睡もしなかった。

 私達生徒は自分の家の方はどうかとそれが心配になった。「とにかく一応帰ってみよう。」と相談して夫々方面別に分かれ支度はしたが、鉄道は不通だし、歩く より他に道はない。被服、食糧、更にはお金さえ補給の道はないまま、町内の人達の温情によって、シャツ、パンツ、下駄等を頂く。飲食物は途中でなんとかな るであろうとたかをくくって、2日の早朝、夫々我が家に向かって歩きはじめた。

 しかし、どこも初めての道だ。道端に避難している人達に聞きながらの行動だ。その人達は我々が鎌倉から歩いてきたときいて、その様子を聞きたがって親切にしてくれたので案外気楽に行けた。

 困ったことが一つ。仲間の事だ。喉が渇いたからといって途中でもらったビールを飲んだのだ。

 空きっ腹に加減なしに飲んだビールにすっかり酔ってしまった。そして酔いにまかせて、当時のヒット曲「船頭小唄」を大声で歌い出した事。避難している大勢の人前もかまわずの行動に大弱りした事。

 感謝しきれなかった事。それは途中君に会った事だ。「家はこのすぐ上だ。お腹も空いているだろう。寄って食べて行ったら...。」とすすめられた事。

 一同早朝出発以来何も食べていない空腹、家を挙げての歓待に一生忘れられない思いをした一日であった。

 恐ろしかった思い出。それは完全に流言飛語だったのだが、朝鮮人問題。後になれば気の毒な思いをさせたものだと反省もさせられた思い出の一つだ。

 安否を心配していてくれた母が相模川の渡船場まで迎えに来てくれた事は90歳の高齢の今になってもはっきりと思い出されるうれしい思い出である。

 この大騒動が関東大震災とはっきり分かったのは家に帰ってから数日後の事であった。

平成5年(1993年)3月13日



出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/


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