////////////// この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえ る大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月) ///////////////
お手紙拝見致しました。返事がおくれまして申訳ございませんでした。実は私事、 字が下手で、その上筆不精ばかり致しております。
さて関東の大地震は、70年近くも以前の事ゆえ、その思い出も前後致しております。何卒笑いながらお読み下さいませ。
お手紙拝見致しました。返事がおくれまして申訳ございませんでした。実は私事、 字が下手で、その上筆不精ばかり致しております。
さて関東の大地震は、70年近くも以前の事ゆえ、その思い出も前後致しております。何卒笑いながらお読み下さいませ。
私、現在の住まいは三春町ですが、戦前は深田町におりました。共済病院の裏門前で、主人の母が産婆をしており、その後、私がその仕事を続けてきたのでした。
主人の兄が大津小学校の教師をしており、昭和35年8月船越小学校校長として現職中に死亡致しました。その節には諸先生方には一方ならぬお世話様をいただきました。おそまきながら厚くお礼申し上げます。ちなみに兄は明治38年生まれだったと思います。
さて、私は三浦郡西浦村芦名の生まれです。私の家は大正6年の津波で壊されましたので、その後は浜から少し上がった田んぼに建て直しました。道路からは3メートル程低く、前も後ろも田んぼでその並びには幅4メートル程の川がありました。 裏の畑は砂浜へと続いていました。その畑では大したものは作らず、煮干しや干物の干し場になっておりました。
その頃、私の家では、暑い季節の昼間は、ここにあった煮干し小屋でお湯を沸かしたり、食事の支度をしておりました。
9月1日、私が学校から帰ったら、ちょうど親たちも畑から帰って来たばかりのようでした。祖母に、お茶が沸いたから台所へ行ってお膳を出してくるようにと、言われたので本家へと戻って参りました。
その時です。急にグラグラと大きな衝撃。何がなんだかわからない状態で動けなくなってしまいました。無意識のうちにそばにあった柱にしがみついておりました。つかまりながら外を見ました。そこには縁側にいた末の弟が放り出されて、ごろごろと転がっておりました。
私は頭の上から崩れた壁土をかぶるやら、天丼に吊るしてあつた大きな鰯の生け費(径2メートル位)が落ちてくるのを目の当たりにしました。
揺れが 少しおさまりました。裏の垣根が倒れました。そこを通り抜け畑伝いに浜に出ようとしました。
浜からは、「津波が来るぞ...。」との叫び声が聞こえて来ました。急いで向きを換え、道路へと出、上へ上へと急ぎました。
ちょっと後を振り返りました。いつも見慣れていた海は水が引いて半分くらいかとさえ思われる程だったし、その向こうに大きな船の姿が見えました。
また、気を取り直し、一生懸命、学校の方へと登っていきました。学校の前に城山と呼ばれた石切山があります。大勢の人がそこに集まっておりました。
私は家族とどこで会えたのか、また、何時間くらい経過したのか思い出せませんが、津波は大丈夫らしいと言ったので、人々はだんだんと帰り始めました。私も同じように家へと帰ったのでした。
日が暮れ暗くなり出したとき、家の人が道路わきのいも畑に寝場所を用意してくれました。しかしまだ時々来る余震におびえ、寝る事もならず、また、何を食べたのか、何を飲んだかも思い出せません。2、3日経った時です。
「朝鮮人が井戸に毒を入れるから...。」との噂が広がり、夜は子供でも竹の棒を持ったりして警戒しました。
家では長兄が、横浜へ集金に行き、連絡のないまま2日も3日も帰ってこないので、家族は不安に思いながら、夜になると真っ赤に染まる東京、横浜の空を眺めておりました。
5日の朝、10時頃でしたか、心配していた兄が、顔から頭から全身真っ黒の状態で帰ってきました。これで一応家族全員が無事で揃ったので一安心でした。
何日位経ってからだつたかは覚えてはおりませんがそれからお米(南京米)、梅干し、缶詰等々と配給がありました。
私達は学校が潰れたので、集会所や大きい家の部屋を借りて勉強するようになりました。高等科生は秋谷の正行院での勉強でした。正行院の手前には4メートル程の川があり、橋は丸太を2、3本渡しただけのものでした。雨が降るとその下の流れが急となり渡るのに怖い思いをした事が忘れられない思い出となっています。
潰れた学校も大正14年2月には出来上がり、卒業式は新築された新しい校舎でできました。
振り返ってみますと芦名では、一軒の火災も出さず 、死亡者は働きに出ていた人が出先で亡くなられたということで1人だけでした。
さて、地震も怖いけれども、伴って起きる火事がさらに怖いと思います。現在ではまだ地震の発生は防ぎようもありませんが、極力火事を出さない心がけが大切です。
私の家ではあの時、ソーダ鰹のマンダラ節をたくさん干してありました。一部津波でさらわれはしたものの残ったのを削って味噌にあえてしばらく副食として利用しました。煮焼きしないですぐ食べられたので大変便利しました 。おすそ分けをしてあげた近所の方々からも大きに助かったと感謝されました。
三浦の土地は2メートル近く隆起したとかで、磯や浜辺には魚や貝がたくさん打ち上げられていましたが、食べないようにと言われましたので、そのままになったようでした。
つまらぬ事を書きまして失礼致しました。段々と寒さに向かいますので折角御身御大切に!さようなら。
出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/
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主人の兄が大津小学校の教師をしており、昭和35年8月船越小学校校長として現職中に死亡致しました。その節には諸先生方には一方ならぬお世話様をいただきました。おそまきながら厚くお礼申し上げます。ちなみに兄は明治38年生まれだったと思います。
さて、私は三浦郡西浦村芦名の生まれです。私の家は大正6年の津波で壊されましたので、その後は浜から少し上がった田んぼに建て直しました。道路からは3メートル程低く、前も後ろも田んぼでその並びには幅4メートル程の川がありました。 裏の畑は砂浜へと続いていました。その畑では大したものは作らず、煮干しや干物の干し場になっておりました。
その頃、私の家では、暑い季節の昼間は、ここにあった煮干し小屋でお湯を沸かしたり、食事の支度をしておりました。
9月1日、私が学校から帰ったら、ちょうど親たちも畑から帰って来たばかりのようでした。祖母に、お茶が沸いたから台所へ行ってお膳を出してくるようにと、言われたので本家へと戻って参りました。
その時です。急にグラグラと大きな衝撃。何がなんだかわからない状態で動けなくなってしまいました。無意識のうちにそばにあった柱にしがみついておりました。つかまりながら外を見ました。そこには縁側にいた末の弟が放り出されて、ごろごろと転がっておりました。
私は頭の上から崩れた壁土をかぶるやら、天丼に吊るしてあつた大きな鰯の生け費(径2メートル位)が落ちてくるのを目の当たりにしました。
揺れが 少しおさまりました。裏の垣根が倒れました。そこを通り抜け畑伝いに浜に出ようとしました。
浜からは、「津波が来るぞ...。」との叫び声が聞こえて来ました。急いで向きを換え、道路へと出、上へ上へと急ぎました。
ちょっと後を振り返りました。いつも見慣れていた海は水が引いて半分くらいかとさえ思われる程だったし、その向こうに大きな船の姿が見えました。
また、気を取り直し、一生懸命、学校の方へと登っていきました。学校の前に城山と呼ばれた石切山があります。大勢の人がそこに集まっておりました。
私は家族とどこで会えたのか、また、何時間くらい経過したのか思い出せませんが、津波は大丈夫らしいと言ったので、人々はだんだんと帰り始めました。私も同じように家へと帰ったのでした。
日が暮れ暗くなり出したとき、家の人が道路わきのいも畑に寝場所を用意してくれました。しかしまだ時々来る余震におびえ、寝る事もならず、また、何を食べたのか、何を飲んだかも思い出せません。2、3日経った時です。
「朝鮮人が井戸に毒を入れるから...。」との噂が広がり、夜は子供でも竹の棒を持ったりして警戒しました。
家では長兄が、横浜へ集金に行き、連絡のないまま2日も3日も帰ってこないので、家族は不安に思いながら、夜になると真っ赤に染まる東京、横浜の空を眺めておりました。
5日の朝、10時頃でしたか、心配していた兄が、顔から頭から全身真っ黒の状態で帰ってきました。これで一応家族全員が無事で揃ったので一安心でした。
何日位経ってからだつたかは覚えてはおりませんがそれからお米(南京米)、梅干し、缶詰等々と配給がありました。
私達は学校が潰れたので、集会所や大きい家の部屋を借りて勉強するようになりました。高等科生は秋谷の正行院での勉強でした。正行院の手前には4メートル程の川があり、橋は丸太を2、3本渡しただけのものでした。雨が降るとその下の流れが急となり渡るのに怖い思いをした事が忘れられない思い出となっています。
潰れた学校も大正14年2月には出来上がり、卒業式は新築された新しい校舎でできました。
振り返ってみますと芦名では、一軒の火災も出さず 、死亡者は働きに出ていた人が出先で亡くなられたということで1人だけでした。
さて、地震も怖いけれども、伴って起きる火事がさらに怖いと思います。現在ではまだ地震の発生は防ぎようもありませんが、極力火事を出さない心がけが大切です。
私の家ではあの時、ソーダ鰹のマンダラ節をたくさん干してありました。一部津波でさらわれはしたものの残ったのを削って味噌にあえてしばらく副食として利用しました。煮焼きしないですぐ食べられたので大変便利しました 。おすそ分けをしてあげた近所の方々からも大きに助かったと感謝されました。
三浦の土地は2メートル近く隆起したとかで、磯や浜辺には魚や貝がたくさん打ち上げられていましたが、食べないようにと言われましたので、そのままになったようでした。
つまらぬ事を書きまして失礼致しました。段々と寒さに向かいますので折角御身御大切に!さようなら。
出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/
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祖父の本籍をネットで調べてるうちにここにたどり着きました。
私はチヨさんのご主人の兄の孫です。ここの出会えたことに、ただただ感動です。ありがとうございました。
上遠野様
コメントいただきありがとうございます。
「主人の兄が大津小学校の教師をしており、」のお孫さんにあたられるかたでしょうか。
この記事は、今年の3.11の東北大震災を経験した際、関東でも起こったときに参考になる記録はないかと探したところ葉山図書館で見付けました。そして残しておくにふさわしいと思い編者に許可をいただきテキスト化したものです。
「私は三浦郡西浦村芦名の生まれです。私の家は大正6年の津波で壊されましたので、その後は浜から少し上がった田んぼに建て直しました。」などは、とても参考になる記録です。
同じ過ちをしないためにも、多くの人に読んでもらいたいと思っております。