//////////////  この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえ る大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月)   ///////////////


 拝啓過日は御手紙をいただき、有り難く拝見致しました。早速御返事をと思いながらも、私用に追われ遅くなり申し訳なく思っております。

 さて、月日の過ぎるのは早いもので、思い出せば今年(平成5年)は9月で70年の節目になる年で、あの恐ろしかった大震災も、今日このごろでは、忘れがちな年月になりました。 しかし、9月1日こそは、私たち体験者には一生忘れられない日です。 ちょうどあの日、私は工場(浦賀ドック)で働いていました。 「山鳴り」というか、「海鳴り」というか、ゴーという音と共に、グラグラときました。何しろ今までに経験した事もありませんでした事、ただ無我夢中で駆け出しました。ところが、足をとられ、体の自由もならず、他の大勢の人たちと地面をころころと転がっていました。 「ただ事ではない。」と思いました。

 余震の合間を見て、家路を急ぎました。道路は倒壊した家で通れません。つぶれた家の屋根伝いに時間をかけて、やっとの思いで、家にたどり着きました。 海岸通りの家はほとんど全壊して1軒の家もない位でした。しかし、幸いにも私の家は隣の家と共に倒壊は免れました。「やれやれ。」とは思いましたが、その家には誰もおりません。「津波が来る。」との話で皆、山へ避難したとの事でした。 急いで法憧寺山へと出向きました。いいあんばいにそこで家族と落ち合う事ができました。全員無事でした。そこには近所の方々大勢が避難しておられました。 余震はやみません。泣き叫ぶ声、あるいはまた、「南無阿弥陀仏。」と念ずる年寄りの声、等々が入り乱れ、地獄とはまさにこの事かと思われました。この夜は、寺前の広場で明かしました。

 夜暗くなってふと気が付いたら荒巻方面に、赤々と夜空を焦がす火の手が上がっておりました。幸いにも東浦賀には火事も出ず、何よりでした。 夜が明け、明るくなったので、家の様子を見ながら海岸へと下りて参りました。驚いた事には浦賀港の水はどこへ行ったのか、中ほどに小さなドブ川のようにチョロチョロと一筋の水路があるだけでした。

 ふと対岸の西浦賀に目をやりました。見慣れた山の姿はありません。渡船場の左大黒屋と隣の倉を残して、愛宕山の山崩れで蛇畠町 内は一瞬にして全滅してしまったのでした。ここだけで100人近い犠牲者があったとの事でした。 その後私は日中は近所の倒壊家屋の片づけ作業の手伝い、夜は仲間とチームを組んで町内巡回夜警等、またあらぬ流言飛語が言い交わされ、大変でした。 大津海岸に流れ着いた大量の流木は当時の浦賀町長、池田屋の当主、石渡秀吉氏のお骨折りで小学校復旧資材に利用されたと記憶しております。お付き合いの あったと言う桐ケ谷庄之助さん宅とは親戚筋であり、その子息、徳次氏は定年退職後地元の叶神社に勤労奉仕しておられました。また山崎辰雄氏は新井町内会 長、氏子総代として、氏神のお祭りのときなど、張り切って奉仕していただいております。 貴殿、浦小教員時代、受け持たれたという地元の久保田孟君、石川信次君、東海林敏夫君等、今は皆亡き人々となりました。 直後まるで干潟のように水の引いた浦賀港も一応は港の形態を取り戻したものの、私たちが子供のころに、岸壁から海へと飛び込んで泳げたものが、現在では浅 くなり、とても飛び込める状態ではありません。 それだけ地盤があがったのでしょうか。

 学校卒業後、職人一筋に働いて来た私。文章もばらばらで読みにくくて申し訳なく思います。 最後に思い出される先生方として、校長先生の反田忠太先生、辻セイ先生、奥津清市先生、落合啓助先生等を覚えております。落合先生には三年間続けてお世話になりました。 春光燦々日ごとに暖気も加わる折柄益々御元気で過ごされん事をお祈りいたします。

平成5年3月30日



出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/


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