////////////// この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえ る大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月) ///////////////
思い出しても身震いを感ずる関東の大震災。
この日は朝から雨が降ったり、止んだり、晴れたりの繰り返しの蒸し暑い日でした。 さて、この9月1日は登校日で夏休み帳や宿題を提出して帰宅致しました。 家では母が台所で薪でご飯を炊いておりました。「まだ出来ないから焼き芋でも買ってきなさい。」と10銭渡されました。芋は山ほどあり、食事までの空腹をつ ないでいました。 そのうち雨は止み、かんかん照りになりました。その時です。急にぐらぐらと横に揺れ出し、それがだんだんと強くなり、そのうちに揺れは上、下となり、とても子供にはどうすることも出来なくなりました。あたりを見れば炊いたばかりのご飯は釜ごとほうり出され、ご飯は台所にとび散りました。棚の物は全部落ち、 本当になんとも言いようのない惨澹たる有様、私は途方にくれておりました。
思い出しても身震いを感ずる関東の大震災。
この日は朝から雨が降ったり、止んだり、晴れたりの繰り返しの蒸し暑い日でした。 さて、この9月1日は登校日で夏休み帳や宿題を提出して帰宅致しました。 家では母が台所で薪でご飯を炊いておりました。「まだ出来ないから焼き芋でも買ってきなさい。」と10銭渡されました。芋は山ほどあり、食事までの空腹をつ ないでいました。 そのうち雨は止み、かんかん照りになりました。その時です。急にぐらぐらと横に揺れ出し、それがだんだんと強くなり、そのうちに揺れは上、下となり、とても子供にはどうすることも出来なくなりました。あたりを見れば炊いたばかりのご飯は釜ごとほうり出され、ご飯は台所にとび散りました。棚の物は全部落ち、 本当になんとも言いようのない惨澹たる有様、私は途方にくれておりました。
そのうち、父が浦賀ドックから、命からがら帰って来て、近くの「おべら」という山に近所の方々と避難する事にしました。 けが人は戸板に載せられ、幾人か運ばれて来ました。やがて心配のうちに夜を迎えましたが、けが人は唸り続け、地震は地震で揺れ返しが十分、十五分おきにと揺れ続いておりました。
夜になると浦賀ドックの火災、横須賀方面の火災で昼をもあざむく明るさ、夜の火事は近くに見えるという事を知らなかった私は、両方面からの火の手がこの山をも焼いてしまわないかと、気が気でなりませんでした。 地震の揺れ返しは夜昼の別なく4、5日は続いたと記憶しております。
私の家では家族が多かったので、危険を冒して山を下り、父と私とでかまどを外に出し、バケツに水を入れ側に置き、ご飯を炊き、 おにぎりにして運びました。おにぎりも、塩むすびにしたり、梅干しを入れたり致しました。こうしている時も、恐ろしくて恐ろしくて、生きている心地は致し ませんでした。 山では蚊帳はつったとはいえ、この野宿は幾日か続きました。 見ると避難した場所は枝豆畑でした。何一つ買う事も出来ないので他人の畑の枝豆ではあったもののとって食べました。その時の味は今も忘れられず、何物にも 代え難い物でした。
話はかわりますが、私達一家はこの年の6月中頃に淡路島から浦賀(しぼう芝生)に引っ越してきたのでした。私の5年生の時の事です。 そして間もない9月1日、この地震に遭ったのでした。 その時つくづくと思いました。「なんと関東という所は恐ろしい所か。」と子供心に。 この地震で学校はめちゃくちゃになり、町の家々も2階建ての家は2階がそのまま滑り落ちたり、1階部分は壊れ、その上に2階部分が居据わったり、また被害は瓦屋根の家が目立って多いように思えました。 浦賀ドック正門の前、今の浦賀生協の前には地割れが出来、1尺5寸(4、50センチ)程の幅で2本平行に長く割れ、これに足を落とすと、揺れ返しが来るまでは足は抜けないと言われておりました。
1ヶ月程経って外米が配られました。 いつも炊く内地米に比べると、倍程にも炊き増えし、パサパサでした。 私の家では以前神戸にいた時米騒動に直面した経験もあるのでそれ以後、主食の米はいつも多い目に買う事にしておりましたので、この時も比較的たくさんの手持ち米がありましたので、外米食は1回程で残りは近所の方々にあげました。 交通輸送の便も悪く、その上、被害で利用できなかったので、買う事等、とてもかなわぬ事だったのでした。
学校も随分と長い間始まりませんでした。全壊だったので、始まっても東の明神様の笹薮で蚊に刺されながら、それでも眼下に海の景色を眺めながらの勉強でした。 また時にはドック会社の施設の共楽館(芝居小屋)の廊下で机を並べて勉強したり、またある時は七曲がりの坂を越し重砲兵学校(馬堀中学校の所)の一室を借りたりの勉強もありました。 共楽館での勉強時には昼食時にアメリカからの救援物資の鮭の缶詰や時には羊肉の缶詰の給食があり、ミルクは1ぱい頂きました。 あの時の鮭缶の味は、今も友達と忘れられないと話し合うのでございます。
浦賀ドックも半年経っても始まらず、給料も入りませんので、川崎、横浜あたりに出稼ぎに出かけたと聞いています。 父は横浜の桜ヶ丘に住んでいた妹の安否が心配で、交通機関の不通の所は徒歩でと、やっとの思いで訪ねたとの事でした。 その時、横浜の街中では、死人をたくさん焼いていて、臭くて臭くてと言いながら帰って来ました。 いかにひどかったかと、今更ながら思うのでございます。
この時の話で、井戸に朝鮮人が毒を入れると大騒ぎになり、大人の人は代わるがわる夜番をしておりました。その井戸も地震ですっかり濁り、きれいな水を求めてあちこち歩き回ったのでした。 大地震と共に、梅干し1ヶ、塩鮭1切れも買えない事態になったのでした。
忘れられない悲しい思い出の一つにこんな事もあるのです。 浦賀小学校に転校して来た時にうけもって下さった大井昇治先生は9月1日始業式の日には元気にお世話を頂いたのでした。そして下校する時には教室におられてさようならと言ってお別れをしたのに、この日を最後にお姿を見る事が出来なくなってしまったのでした。 若い男の先生、やさしい先生。今も心残りに思っております。 先生はこの地震を機会に都合で退職なさったとの事のようでした。
出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/
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夜になると浦賀ドックの火災、横須賀方面の火災で昼をもあざむく明るさ、夜の火事は近くに見えるという事を知らなかった私は、両方面からの火の手がこの山をも焼いてしまわないかと、気が気でなりませんでした。 地震の揺れ返しは夜昼の別なく4、5日は続いたと記憶しております。
私の家では家族が多かったので、危険を冒して山を下り、父と私とでかまどを外に出し、バケツに水を入れ側に置き、ご飯を炊き、 おにぎりにして運びました。おにぎりも、塩むすびにしたり、梅干しを入れたり致しました。こうしている時も、恐ろしくて恐ろしくて、生きている心地は致し ませんでした。 山では蚊帳はつったとはいえ、この野宿は幾日か続きました。 見ると避難した場所は枝豆畑でした。何一つ買う事も出来ないので他人の畑の枝豆ではあったもののとって食べました。その時の味は今も忘れられず、何物にも 代え難い物でした。
話はかわりますが、私達一家はこの年の6月中頃に淡路島から浦賀(しぼう芝生)に引っ越してきたのでした。私の5年生の時の事です。 そして間もない9月1日、この地震に遭ったのでした。 その時つくづくと思いました。「なんと関東という所は恐ろしい所か。」と子供心に。 この地震で学校はめちゃくちゃになり、町の家々も2階建ての家は2階がそのまま滑り落ちたり、1階部分は壊れ、その上に2階部分が居据わったり、また被害は瓦屋根の家が目立って多いように思えました。 浦賀ドック正門の前、今の浦賀生協の前には地割れが出来、1尺5寸(4、50センチ)程の幅で2本平行に長く割れ、これに足を落とすと、揺れ返しが来るまでは足は抜けないと言われておりました。
1ヶ月程経って外米が配られました。 いつも炊く内地米に比べると、倍程にも炊き増えし、パサパサでした。 私の家では以前神戸にいた時米騒動に直面した経験もあるのでそれ以後、主食の米はいつも多い目に買う事にしておりましたので、この時も比較的たくさんの手持ち米がありましたので、外米食は1回程で残りは近所の方々にあげました。 交通輸送の便も悪く、その上、被害で利用できなかったので、買う事等、とてもかなわぬ事だったのでした。
学校も随分と長い間始まりませんでした。全壊だったので、始まっても東の明神様の笹薮で蚊に刺されながら、それでも眼下に海の景色を眺めながらの勉強でした。 また時にはドック会社の施設の共楽館(芝居小屋)の廊下で机を並べて勉強したり、またある時は七曲がりの坂を越し重砲兵学校(馬堀中学校の所)の一室を借りたりの勉強もありました。 共楽館での勉強時には昼食時にアメリカからの救援物資の鮭の缶詰や時には羊肉の缶詰の給食があり、ミルクは1ぱい頂きました。 あの時の鮭缶の味は、今も友達と忘れられないと話し合うのでございます。
浦賀ドックも半年経っても始まらず、給料も入りませんので、川崎、横浜あたりに出稼ぎに出かけたと聞いています。 父は横浜の桜ヶ丘に住んでいた妹の安否が心配で、交通機関の不通の所は徒歩でと、やっとの思いで訪ねたとの事でした。 その時、横浜の街中では、死人をたくさん焼いていて、臭くて臭くてと言いながら帰って来ました。 いかにひどかったかと、今更ながら思うのでございます。
この時の話で、井戸に朝鮮人が毒を入れると大騒ぎになり、大人の人は代わるがわる夜番をしておりました。その井戸も地震ですっかり濁り、きれいな水を求めてあちこち歩き回ったのでした。 大地震と共に、梅干し1ヶ、塩鮭1切れも買えない事態になったのでした。
忘れられない悲しい思い出の一つにこんな事もあるのです。 浦賀小学校に転校して来た時にうけもって下さった大井昇治先生は9月1日始業式の日には元気にお世話を頂いたのでした。そして下校する時には教室におられてさようならと言ってお別れをしたのに、この日を最後にお姿を見る事が出来なくなってしまったのでした。 若い男の先生、やさしい先生。今も心残りに思っております。 先生はこの地震を機会に都合で退職なさったとの事のようでした。
出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
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