////////////// この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえ る大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月) ///////////////
大正12年9月1日、夏も終わりの蒸し暑い日であった。
私は豊山中学(東京小石川)の三年生、夏休みも終わりの土曜日、親戚の神田市場(多町)に遊びに行き、店の息子と「ピタゴラスの定理」について話し合って居た時だ。午前11時58分。突然マグニチュード7.5を超すあの大地震。
大正12年9月1日、夏も終わりの蒸し暑い日であった。
私は豊山中学(東京小石川)の三年生、夏休みも終わりの土曜日、親戚の神田市場(多町)に遊びに行き、店の息子と「ピタゴラスの定理」について話し合って居た時だ。午前11時58分。突然マグニチュード7.5を超すあの大地震。
店に盛ってあった林檎、梨の類がゴロゴロと転がり、店の者達と片付け始めたら、今度は「火事だ、火事だ。」との声、大急ぎで外にとび出して見ると、須田町の一角から火の手が上がり忽ち熱風が襲い始めた、さあ大変。大急ぎで店のいろいろの物を大八車に積み込み店を出た。
時刻はすでに午後3時を過ぎていた。店の番頭の車の後押し、でも後押しとは体裁で、本当は西も東もわからない不案内な土地で、繰り返す余震におびえながら、車につかまっていたのが本当だ。
電車通りに出たら、すでに電車はからっぽ。車掌も運転手も、車を打ち捨て逃げたのだろう。小川町の三差路の所まで来た時は、九段方面はもう烈しい火の手、やむなく左にまわり錦町に出た時は、もう八方火の海。猛火はつむじ風を呼び、吹きまくる風は、ゴウゴウともの凄い音。グラグラと揺れる家屋。泣き乍ら、バ ケツを被り駆けて行く者。これが地球最後の日かとさえ思えた。
上からは大きな火の粉がかたまりとなって降って来る。だんだんと熱気が迫ってくる。道路は逃げて行く人が右往左往、私は道に落ちていた座布団を拾い頭に載 せ、また車の上に降ってくる火の粉を払い払いやっとの思いで神田橋の手前まで来た。その時、宮城の方から逃げて来た人が「もう神田橋は落ちた。もう駄目 だ。」と言う。仕方なく右にまわり竹橋の兵隊屋敷の方に逃げる。ここでやっと火の手から逃れることが出来たのだ。
今当時を思い出すとよくも生き残ることが出来たと思う。
当時を思い出すと種々のことが想い浮かぶ。逃げる途中にオートバイ屋があった。その店先に「2台の車を出してくれた方には1台 を無料で差し上げます」と書いてあった。けれども誰一人手を付ける者もなく、全部灰にしたとのこと。当時(大正12年頃) オートバイ1台は、現在の高級車の値段にも相当したであろうに。
又今でも目に残っているのは、青果問屋の2階の物干しに、赤い腰巻が2枚ひらひらと風に舞っていた。それは火災除けのまじな呪いとの事。昔の人は面白い事 を信じていたものだ。
浜町に住んでいた私の学友の話では、家族の者がわかれわかれになり、カバンを肩に、風呂敷包みをさげて逃げたのが隅田川岸、やっと舟に乗せてもらったのは よかったが、後から後から避難して来た者達が「助けてくれ、助けてくれ。」と泣き叫び、その内、舟の荷物に火が付き、また着ていた着物までが燃え始め仕方 なく川に飛び込み一命を取りとめたとの事。彼の話では舟に乗った者の3分の2は助からなかったとのことだった。
人の運命は紙一重と言うがまったく分からないものだと、つくづく思った。
父親が私を探しに来て再会出来たのが地震から5日目の事。しばらくは口もきけない程だった。
平成4年10月
出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/
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時刻はすでに午後3時を過ぎていた。店の番頭の車の後押し、でも後押しとは体裁で、本当は西も東もわからない不案内な土地で、繰り返す余震におびえながら、車につかまっていたのが本当だ。
電車通りに出たら、すでに電車はからっぽ。車掌も運転手も、車を打ち捨て逃げたのだろう。小川町の三差路の所まで来た時は、九段方面はもう烈しい火の手、やむなく左にまわり錦町に出た時は、もう八方火の海。猛火はつむじ風を呼び、吹きまくる風は、ゴウゴウともの凄い音。グラグラと揺れる家屋。泣き乍ら、バ ケツを被り駆けて行く者。これが地球最後の日かとさえ思えた。
上からは大きな火の粉がかたまりとなって降って来る。だんだんと熱気が迫ってくる。道路は逃げて行く人が右往左往、私は道に落ちていた座布団を拾い頭に載 せ、また車の上に降ってくる火の粉を払い払いやっとの思いで神田橋の手前まで来た。その時、宮城の方から逃げて来た人が「もう神田橋は落ちた。もう駄目 だ。」と言う。仕方なく右にまわり竹橋の兵隊屋敷の方に逃げる。ここでやっと火の手から逃れることが出来たのだ。
今当時を思い出すとよくも生き残ることが出来たと思う。
当時を思い出すと種々のことが想い浮かぶ。逃げる途中にオートバイ屋があった。その店先に「2台の車を出してくれた方には1台 を無料で差し上げます」と書いてあった。けれども誰一人手を付ける者もなく、全部灰にしたとのこと。当時(大正12年頃) オートバイ1台は、現在の高級車の値段にも相当したであろうに。
又今でも目に残っているのは、青果問屋の2階の物干しに、赤い腰巻が2枚ひらひらと風に舞っていた。それは火災除けのまじな呪いとの事。昔の人は面白い事 を信じていたものだ。
浜町に住んでいた私の学友の話では、家族の者がわかれわかれになり、カバンを肩に、風呂敷包みをさげて逃げたのが隅田川岸、やっと舟に乗せてもらったのは よかったが、後から後から避難して来た者達が「助けてくれ、助けてくれ。」と泣き叫び、その内、舟の荷物に火が付き、また着ていた着物までが燃え始め仕方 なく川に飛び込み一命を取りとめたとの事。彼の話では舟に乗った者の3分の2は助からなかったとのことだった。
人の運命は紙一重と言うがまったく分からないものだと、つくづく思った。
父親が私を探しに来て再会出来たのが地震から5日目の事。しばらくは口もきけない程だった。
平成4年10月
出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
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