////////////// この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえ る大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月) ///////////////
大正12年9月1日、午前11時58分、その日は2学期の始業式の日で半日で帰りました。
「ご飯だよ。」と呼ばれたが、私はちょうどさとうの木(サトウキビ)をしゃぶりながら遊んでいました。
大正12年9月1日、午前11時58分、その日は2学期の始業式の日で半日で帰りました。
「ご飯だよ。」と呼ばれたが、私はちょうどさとうの木(サトウキビ)をしゃぶりながら遊んでいました。
その時です。蔵の庇が落ち、一足違いで私はつぶされるところでした。
家の前では、いじいさん、おばあさんがゴロゴロと転がっており、とても歩くどころではなく、私もようやくにして、兄が竹藪まで転び転びしながら連れていってくれました。
余震はひっきりなしに続きました。近所の3世帯の方々が、私の大きなもちの木や竹藪に逃げ込んできました。
家の中では生活できませんでしたので、毎日毎日が外での生活でした。そしてその毎日が不安の気持ちで一杯でした。
井戸の水も濁ってしまいいました。
近所に知り合いの佃煮屋がありましたが、よくそこで佃煮を買って食べました。
津波が来ると言われていたので、大人たちは桟敷を造り、子供たちを全部その桟敷にのせ、自分たちは木の枝へ帯や縄などをつるして、それにつかまる用意をしていました。しかし、津波については大した事もなく、三浦半島は隆起したらしく揺れも大分おさまりましたので、御幸ヶ浜へ行ってみました。
すると驚く事に海の水は沖の方へと退き、広々と干上がった砂浜には貝やあおやぎ(マスッケ)が真っ白に一面ありました。
そのうち、変な噂がとび、「朝鮮人が井戸に毒をまいていた。」とか、「御幸ヶ浜の松並木の辺りから追いかけてきた。」とか、もう大変な騒ぎでした。
余震もかなりおさまりましたので、5日目からは家の中で寝ました。近所では裏通りの五軒が並んでペシャンコに倒れていました。
武山小学校も南校舎全部が倒れ、八幡様の鳥居も狛犬も壊れてしまいました。
まだときどき、余震が続きました。学校へは行かれません。学校が出来るまでの間、武の東漸時が臨時の教室として利用されました。
お葬式のある日などは、お経の声、鐘の音で勉強も身に入りませんでした。
武山の不動さんの麓に湯場と呼ばれていた湯宿がありました。そこは同級生だった吉田外之助君の家でした。
この家はこの地震で裏山が崩れ落ち一瞬にして、吉田君を含めて、一家全員死亡でした。
あちらこちらたくさんの被害があったようです。
私は当時小学校5年生でしたが離れた土地のことは思い出せませんが、身近で体験したあの恐怖感だけはいまだに忘れる事もなく、はっきりと覚えています。
平成4年9月24日
出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/
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家の前では、いじいさん、おばあさんがゴロゴロと転がっており、とても歩くどころではなく、私もようやくにして、兄が竹藪まで転び転びしながら連れていってくれました。
余震はひっきりなしに続きました。近所の3世帯の方々が、私の大きなもちの木や竹藪に逃げ込んできました。
家の中では生活できませんでしたので、毎日毎日が外での生活でした。そしてその毎日が不安の気持ちで一杯でした。
井戸の水も濁ってしまいいました。
近所に知り合いの佃煮屋がありましたが、よくそこで佃煮を買って食べました。
津波が来ると言われていたので、大人たちは桟敷を造り、子供たちを全部その桟敷にのせ、自分たちは木の枝へ帯や縄などをつるして、それにつかまる用意をしていました。しかし、津波については大した事もなく、三浦半島は隆起したらしく揺れも大分おさまりましたので、御幸ヶ浜へ行ってみました。
すると驚く事に海の水は沖の方へと退き、広々と干上がった砂浜には貝やあおやぎ(マスッケ)が真っ白に一面ありました。
そのうち、変な噂がとび、「朝鮮人が井戸に毒をまいていた。」とか、「御幸ヶ浜の松並木の辺りから追いかけてきた。」とか、もう大変な騒ぎでした。
余震もかなりおさまりましたので、5日目からは家の中で寝ました。近所では裏通りの五軒が並んでペシャンコに倒れていました。
武山小学校も南校舎全部が倒れ、八幡様の鳥居も狛犬も壊れてしまいました。
まだときどき、余震が続きました。学校へは行かれません。学校が出来るまでの間、武の東漸時が臨時の教室として利用されました。
お葬式のある日などは、お経の声、鐘の音で勉強も身に入りませんでした。
武山の不動さんの麓に湯場と呼ばれていた湯宿がありました。そこは同級生だった吉田外之助君の家でした。
この家はこの地震で裏山が崩れ落ち一瞬にして、吉田君を含めて、一家全員死亡でした。
あちらこちらたくさんの被害があったようです。
私は当時小学校5年生でしたが離れた土地のことは思い出せませんが、身近で体験したあの恐怖感だけはいまだに忘れる事もなく、はっきりと覚えています。
平成4年9月24日
出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
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