//////////////  この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえ る大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月)   ///////////////


 先生暫くご無沙汰致しました。お変わりはございませんか。

 私は元気でこの度表記の所に今までの酒屋をやめて引っ越して参りました。静かで空気も良い所です。

 ところで関東の大震災の体験を思い出しながら書くことにいたします。

 当時私は六浦4099に住んでおりました。

 丁度お昼時、私はすでに食べ終わり、 縁側にでてお手玉を縫っていました。弟も食べ終わり近所のおじいさんの所へ遊びに、母はまだ食事中でした。

 その時です。ぐらぐらと、そのうちにがらがら・・・。

 「母ちゃん、地震だ。」と外に飛び出す。しかし歩けない。腹ばいになって 夢中で・・・。

 ふと前を見れば2カ所も大きな地割れ。私はそこに落ちないようにと身を支え、「母ちゃん、早く早く。」と泣き叫ぶ。

 母は座敷迄は来れたが、外には出れない。「瓦が落ちるからあっちへ・・・。」と叫ぶ。

 そのうち、ちょっと静まったので前のけやきの根元にしがみつきました。

 余震はまだ続きましたが、人がざわざわ集まって来ました。

 よかった事に近所で潰れた家はありませんでしたが、不安だったので家には入らず、夜はこのけやきのそばに板を敷き、ござを敷き、その上で野宿したのでした。

 その夜、東方横須賀方面の夜空は重油タンクの火災で真っ赤になりそれが3日3晩燃え続き、ものすごく、毎日震えながら過ごしました。

 親戚筋の方ですが、横浜方面から水道管の破裂まで越までびしょぬれになり、乗り物もなく、命からがら着の身着のままはだしで逃げて来、渡しの家に半年近くもいましたか。

 私の家はこんな訳で村一番の大家族になり、米をつくやら、野菜も食べつくし、そのうちアメリカからの慰問の缶詰等の配給でどうやらつないで来ました。

 この間、父も母も大変だった事だったろうにとつくづく思い返される事々です。
 
 70年目に大地震があるとかうわさされていますが、心配です。

 しかし、生きている以上は天才は免れない事柄です。これに対応できる心構えだけは持っていたいと思います。

平成5年4月19日



出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/


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