//////////////  この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえ る大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月)   ///////////////


 兄は浦賀のドックの設計課に勤めていた。22才だった。

 勤めていた会社の事務所は木造3階建ての大きな施設ではあったが。一かたまりもなく全壊した。

 しかし、幸運にも兄はけがもせず避難出来、取りあえず家に連絡に帰った。家の状態やら家族の無事だった事が分かったので、またすぐに引き返し職場に戻った。しかしそのまま夜になっても帰ってこない。そして2日の朝を迎えた。

 「何しているのだろう。とにかく一度見て来たら。」との母の言葉に、私は兄の会社に出向いた。9月2日の午前中のことだった。

 兄は職場のけがをした同僚達の世話に忙しく立ち働いていた。負傷者の中に高橋角五郎さん(34才)が居られた。倶楽部の中庭に寝かせてあったが、意識不明の重傷であり、その上まだ家との連絡はついていないという。家は武山の太田和である。

 「浦賀から行くと法塔の十字路を左に折れ、三崎街道を南進、トンネル2つを抜けた辺りで聞けば分かるだろうから。」との言葉を受け、私は自転車で不安の道を急いだ。今考えると幸富店の辺りで尋ねたのであろう。それでもいいあんばいに尋ね当てられ、奥さん(タカさん)に会う事が出来、状況を伝える事が出来た。

 家でもすでに昨日中に安否を気遣って連絡には出掛けはしたものの所在がわからないままに引き返した所だったとの事。取るものも取りあえず急いで奥さんを連れて道を急いだ。奥さんは小さいお子さんを負ぶって居られた。後日での話しでこのお子さんは当時1才だった三男であり、翌13年に亡くなられたとの事。

 さて瀕死の重傷だった角五郎さんのその後の消息をうかがう機会のないままに過ぎていたのですが、この記録をまとめるに当たってお宅にうかがった所、命日が大正12年9月3日とのことでしたので、私が案内した翌日にはとうとう亡くなられたのでした。

 この一瞬の天災によって一家の大黒柱を亡くされたタカさんは両親と当時10才だった二男、たもつさんを頭に4人の子供を抱えて途方に暮れられた事だったでしょう。

 そして、この後も立ち直る余裕をも与えぬかのように引き続いてこの年の10月には父親を翌13年には末子(三男)を更に、14年には母親をと次々に亡くされたと聞きました。

 こうして悲しみの涙の乾く暇も無い程に拭こう続きの末、今度は自分自身も大正15年初夏13才になったばかりのたもつさんとその妹さん2人を残したまま、亡くなられたと聞きました。

 わずかの期間に両親、祖父母、弟と続けざまに5人もの身内の人達を亡くされ、天涯孤独となった兄弟3人のその後の生活はさぞかし、厳しい生活だったであろうにと同情の涙を禁じ得なかった次第でした。

平成4年10月10日



出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/


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