////////////// この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえ る大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月) ///////////////
私の実弟中川二郎氏は、大震災が起きた年の2月、浦賀小学校を卒業し、鎌倉の県師範学校の予備科1年生として在学していた。
第2学期の始業が9月4日となっていたので、この震災時はまだ夏休み中であり、その日は自宅(西浦賀町)に居合わせた。この時にあの大地震が発生したのだった。この一瞬の地震で隣家またその隣家と続いて全壊したのだが、自宅は傾きはしたものの全壊は免れる事が出来た。
私の実弟中川二郎氏は、大震災が起きた年の2月、浦賀小学校を卒業し、鎌倉の県師範学校の予備科1年生として在学していた。
第2学期の始業が9月4日となっていたので、この震災時はまだ夏休み中であり、その日は自宅(西浦賀町)に居合わせた。この時にあの大地震が発生したのだった。この一瞬の地震で隣家またその隣家と続いて全壊したのだが、自宅は傾きはしたものの全壊は免れる事が出来た。
しかし、在籍した鎌倉の師範学校は見る影もないほどに全壊してしまった。全寮制だった関係もあり、早速の授業の開始は望めるはずもなく、臨時の体校となった。当局は大急ぎで、かろうじて残った建物を修理し、10月21日、天長節祝日となっていた日に登校するようにとの通知により、その式後ようやく翌11月1日から、第2学期も授業の再開となった次第。
授業が再開されるまでの約2ケ月間、地元の青年団 、在郷軍人会等のメンバーの一員、あるいはまた、代人としての奉仕に従事した。この奉仕活動の一つとして、こんな事があったと話し出したのだった。
震災後間もない時、町役場から被災家庭の応急用資材としてトタン板の配給をするからとの連絡があり、この受け取り方の要請を町内会が受けた。たまたま親戚の家の人が役員だった関係で、たとえ15歳の少年ではあるが、その人の代人として受取人のメンバーの一人として出向いた。しかし、川間からは途中、蛇畠の山崩れのため車の交通は不可能であつた。相談の結果、漁師の船を借り、これを利用して運ぶ事にした。浜町から船を出し、谷戸の渡場で荒巻の役場で受け取つたトタン板を積み込み運び帰る計画である。
船の胴体に横積みに積み重ねる。かなりの重量になったので荷縄はかけぬまま漕ぎ出した。
この頃浦賀ドックの用船で本工場と分工場の間を連絡していた引船があつた。谷戸丸、館浦丸と言う船名がついていた。両船とも型は同じで、小型ながら引き船用に使用するので馬力はかなりあった。(このどちらの船だったかは聞き損じたが)その船がすぐ近くを通り過ぎた。この引船の通過で俗に言う蒸汽波が起こり、その波を真横から受けてしまった。
そこで急に船はローリング起こした。静かな海面なら何の支障もなく運搬出来たはずのこのトタン運び作業は港の真ん中で突然予期もしなかったこんな事態に遭遇した。荷縄をかけず、新品のトタンだった事もあったので、摩擦も少ないままに傾いた途端にすべり落ちた。傾き出しすべり落ち出したら一層に傾斜がつき、「ぞろぞろ」と音を立て一瞬の間に海中に落としてしまった。今もらって来たばかりの貴重な品、ほとんど全部といってよいほどの量を海底に落としてしまったのだ。それも港としたら一番深い個所に落としてしまったのだ。作業にあたつた面々ただ顔を見合わすばかり。一同思案投首。ちょうどよく、浜町に吉井さんという漁師で素潜り漁をされる方のいるのを思い出し、「その方に頼んでみたら。」と言う事に落ち着き、交渉し依頼した。
時も時だけに快く引き受けてもらえ、現地で綱を持って、海底にもぐり海底で結わき、それを引き上げた。
実はこの話のやり取りの概要を私が書くことになったのは、次のようないきさつがあったためである。
昭和12年11月は私たちの実父の命日なので、毎年のように11月に入ると墓参りの誘いを受け、この年(平成4年)も、11月9日(月)に菩提寺(常福寺)に落ち合い墓参りをすることにした。花や線香は彼に頼み、私は直接現地に出向いた。前日の強風で墓のまわりは落葉、枯れ枝等でひどく散らかっていたが、これらを清掃し、花をささげ線香をあげて引揚げ、親戚宅に寄り、昼食夕食のご馳走になり、その間には、碁を打ち、5時からは前日に始まった大相撲11月場所2日目の放送を見学した。
この間に、私は是非震災の体験記録をと所望したのでした。ところが彼は、「おれは文章が苦手だから...。と言いながらもこんな思い出があるのだが...」と口を切りはじめたのだった。これを聞いた私は、「それこそ、あなただけの思い出で、もはやだれも知っている人はいないであろう。ぜひその事だけでよいから早速にも文章にして届けて欲しい。」と重ねて所望したのだった。
この日、相撲放送が終わり、夕食をご馳走になり、午後7時「今晩は長居しないで帰る。」と言い出したので、自家用車で大津の彼の自宅へと送り届けたのだった。自宅に帰り着いた彼は、家族に「ちょっと気分が変だから休む。」と言って床を敷かせて休んだとの事。それからほんの1時間、9時半頃になって、家族から拙宅に「ちよっと様子が変だが...。」との電話。ただ事ではなさそうな口振りだったので、取るものも取り敢えず、駆けつけた時には、すでに息を引取った後だった。
何の異常もないまま一日中行動をともにした彼が別れた直後、こうしてすでに帰らぬ人となる。彼がしゃべった話中の関係者中、最低年齢者(満十五歳)だった彼の死によつてこんな事実の存在は、永久に話にもならぬままに消え去つてしまうことになる。
こんな事柄の存在した事を七十年経った今、初めて耳にし、それこそとつておきのエピソードとして体験した本人に書いてもらおうと頼んだ直後、こうして幽明境を異にするという事態に直面してしまった。忘れぬ中にと急いで聞いたままを記述した次第である。
平成4年12月9日
出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/
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授業が再開されるまでの約2ケ月間、地元の青年団 、在郷軍人会等のメンバーの一員、あるいはまた、代人としての奉仕に従事した。この奉仕活動の一つとして、こんな事があったと話し出したのだった。
震災後間もない時、町役場から被災家庭の応急用資材としてトタン板の配給をするからとの連絡があり、この受け取り方の要請を町内会が受けた。たまたま親戚の家の人が役員だった関係で、たとえ15歳の少年ではあるが、その人の代人として受取人のメンバーの一人として出向いた。しかし、川間からは途中、蛇畠の山崩れのため車の交通は不可能であつた。相談の結果、漁師の船を借り、これを利用して運ぶ事にした。浜町から船を出し、谷戸の渡場で荒巻の役場で受け取つたトタン板を積み込み運び帰る計画である。
船の胴体に横積みに積み重ねる。かなりの重量になったので荷縄はかけぬまま漕ぎ出した。
この頃浦賀ドックの用船で本工場と分工場の間を連絡していた引船があつた。谷戸丸、館浦丸と言う船名がついていた。両船とも型は同じで、小型ながら引き船用に使用するので馬力はかなりあった。(このどちらの船だったかは聞き損じたが)その船がすぐ近くを通り過ぎた。この引船の通過で俗に言う蒸汽波が起こり、その波を真横から受けてしまった。
そこで急に船はローリング起こした。静かな海面なら何の支障もなく運搬出来たはずのこのトタン運び作業は港の真ん中で突然予期もしなかったこんな事態に遭遇した。荷縄をかけず、新品のトタンだった事もあったので、摩擦も少ないままに傾いた途端にすべり落ちた。傾き出しすべり落ち出したら一層に傾斜がつき、「ぞろぞろ」と音を立て一瞬の間に海中に落としてしまった。今もらって来たばかりの貴重な品、ほとんど全部といってよいほどの量を海底に落としてしまったのだ。それも港としたら一番深い個所に落としてしまったのだ。作業にあたつた面々ただ顔を見合わすばかり。一同思案投首。ちょうどよく、浜町に吉井さんという漁師で素潜り漁をされる方のいるのを思い出し、「その方に頼んでみたら。」と言う事に落ち着き、交渉し依頼した。
時も時だけに快く引き受けてもらえ、現地で綱を持って、海底にもぐり海底で結わき、それを引き上げた。
実はこの話のやり取りの概要を私が書くことになったのは、次のようないきさつがあったためである。
昭和12年11月は私たちの実父の命日なので、毎年のように11月に入ると墓参りの誘いを受け、この年(平成4年)も、11月9日(月)に菩提寺(常福寺)に落ち合い墓参りをすることにした。花や線香は彼に頼み、私は直接現地に出向いた。前日の強風で墓のまわりは落葉、枯れ枝等でひどく散らかっていたが、これらを清掃し、花をささげ線香をあげて引揚げ、親戚宅に寄り、昼食夕食のご馳走になり、その間には、碁を打ち、5時からは前日に始まった大相撲11月場所2日目の放送を見学した。
この間に、私は是非震災の体験記録をと所望したのでした。ところが彼は、「おれは文章が苦手だから...。と言いながらもこんな思い出があるのだが...」と口を切りはじめたのだった。これを聞いた私は、「それこそ、あなただけの思い出で、もはやだれも知っている人はいないであろう。ぜひその事だけでよいから早速にも文章にして届けて欲しい。」と重ねて所望したのだった。
この日、相撲放送が終わり、夕食をご馳走になり、午後7時「今晩は長居しないで帰る。」と言い出したので、自家用車で大津の彼の自宅へと送り届けたのだった。自宅に帰り着いた彼は、家族に「ちょっと気分が変だから休む。」と言って床を敷かせて休んだとの事。それからほんの1時間、9時半頃になって、家族から拙宅に「ちよっと様子が変だが...。」との電話。ただ事ではなさそうな口振りだったので、取るものも取り敢えず、駆けつけた時には、すでに息を引取った後だった。
何の異常もないまま一日中行動をともにした彼が別れた直後、こうしてすでに帰らぬ人となる。彼がしゃべった話中の関係者中、最低年齢者(満十五歳)だった彼の死によつてこんな事実の存在は、永久に話にもならぬままに消え去つてしまうことになる。
こんな事柄の存在した事を七十年経った今、初めて耳にし、それこそとつておきのエピソードとして体験した本人に書いてもらおうと頼んだ直後、こうして幽明境を異にするという事態に直面してしまった。忘れぬ中にと急いで聞いたままを記述した次第である。
平成4年12月9日
出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
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