//////////////  この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえ る大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月)   ///////////////


 毎年9月1日は防災の日として、改めて災害に対しての意識を確認し、具体的な対応策を検討する事にしています。

 これはあの大正12年9月1日に東京を中心として起こった関東の大震災にちなんでの設定です。

 当時、私は旧制中学を卒業後鎌倉にあった神奈川県師範学校の本科二部生として在籍していた。数え18才の時のことでした。

 1学期終了後夏期休暇に入っていた関係で、部活等で登校していた一部の生徒は例外として、大部分の生徒は家庭に帰り、間もなく始まろうとしていた第2学期の始業に臨もうとしていた矢先の災害だったのでした。

 今までに経験したこともない程の大地震でした。当時の建物は地震に対しての配慮が不十分だったためか、一瞬にして大災害となり、倒壊家屋の続出、地域によっては引き続いての火災の発生へと発展しました。私は西浦賀が実家でしたので、浦賀の被害は直体験として、すでに当時からすれば69年もの以前の事柄ながら、今でもはっきりした印象となって思い返される事々です。

 そして浦賀の地域での特異性はその地形から生まれた山崩れの災害でした。

 宮下部落から分かれて浜町川間へと通じた道は蛇畠の部落で、西側には愛宕山が迫り、東側は一列並びの民家の裏側がすぐ海となっていたのでした。この状態の所へ愛宕山の崖部分が一瞬にして崩れ落ち、家々の屋根越しに道一杯に直撃いたしました。

 浦賀全町で約200人といわれた震災犠牲者中、この蛇畠部落を中心とした圧死者約100人。安西さん宅等は、浦賀ドックに勤めていた主人1人を残して、たまたま夏休みを利用して実家に帰省していられた長女の方家族を含めて、9人もの方を一瞬にして亡くされたという悲惨なお宅も出たような次第でした。

 この他久比里坂の切り通し、ドック原にも山崩れがあり、通行中の人や荷馬車に被害も出たとか聞いています。

 また、山崩れ被害の他、家屋の倒壊、引き続いて発声した火災、何しろどれもこれもが、間髪を入れない一瞬の出来事だったのでした。

 倒壊建物の最たるものは浦賀小学校の倒壊です。

 耐震配慮が不十分だったためか、町最大な規模を誇っていた建物が完全に全壊したのでした。

 当日は第2学期の始業式だけの日だった事もあり、学校崩壊に伴う児童等の直接的な人身事故はなかった様ではあったが、

 私達がお世話になったなつかしの校舎は完全に倒壊という次第でした。その時私の在籍していた鎌倉の師範学校も,ほんの一部分を除いて校舎の大部分は全壊でした。

 応急措置で授業再開に備えたのでしたが、以後9月、10月と経過し、やっと10月21日、当時天長節祝日となっていた日に初めて登校、 挙式、そしてその翌日の11月1日から二学期の授業開始となったようなわけでした。

 それ迄の間、私は家に居り、青年団員の1人として愛宕山の埋没家屋や犠牲者の掘り出しやら倒壊小学校の解体片付け等のボランティア作業に従いました。

 浦賀の町ではこの愛宕山の崩落残土を利用して八戸から蛇畠へかけての海岸通りを造成し、今の町並みの誕生となったのでした。

 次に、この機会に浦賀小学校から分離独立した高坂小学校を含めて、浦賀町管内の5つの小学校の復旧校舎は。平屋建てスレート葺きの建物で建て直されました。しかし、これがまた耐震性第一主義で、防火的配慮がなされていなかったため、終戦直後の昭和21年9月21日(土)午後1時20分、校舎の最南端室から出火した火災のため、屋根裏が煙道となりまたたく間に全校舎が火焔につつまれ、全焼の厄に会う始末となったわけでした。

 関東大震災から数えて今年は69年目、以前江戸を襲ったという安政の大地震は安政2年(1855年)10月2日の発生、関東の大震災との間、68年。

今、各災害防止の対策は検討され実施、実現されつつあるものの、いつ発生しても不思議ではない地震災害に対しての心構えこそ、夢怠りなくしておきたいものだと痛感する次第です。

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平成4年9月1日



出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/

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