//////////////  この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえ る大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月)   ///////////////


 あの大地震の発生は、私が海軍工廠に勤め出した当初の事です。事務所は間口4間奥行き6間の木造2階建ての施設で外壁は全部赤レンガでガードしてありました。

 当時私は特別な計らいで、午後は勉強に行く事になっていたのでした。そんな訳で早めに昼食を済ませ、工場長に「只今から学校に行かせてもらいます。」と挨拶に行ったのでした。その時です。「ドカン!」という音と同時にあの地震だったのです。

 建物は柱のみ残して一瞬にして崩れ落ちました。私達は命からがら夢中で工場外へとび出しました。道路を横切り岸壁に繋いであった軍艦へと逃れたのでした。

 工場の対岸は横須賀駅、その前方港町にかけて海軍の食糧倉庫になっていたのでした。その背後は山で、見晴らし山と言われていたのです。この地震でこの山に大きな山崩れが起きたのでした。私達のいる所は港を中にした対岸だったのでしたが、の山崩れの土煙りで生きた気持ちはなかったのでした。

 ちょっとおさまったので艦から上陸しようとしたのでした。ところがどうでしよう。陸地(岸壁)は2メートル50も段差がついてしまっているのです。登る事が出来ません。海軍の軍人達が応急措置として総掛りで上陸用桟橋をかけ直してくれたのでした。やっとの思いで上陸してみれば、これまた驚きでした。道路に敷設してあった汽車の引込みレールが跳ね上がっていて汽車の走れる状態ではないのです。

 さて工員は家の事もあるのですべて一応帰宅命令が出たので自由の体となり、私は一人急遠下宿先ヘと急ぎました。下宿先は佐野だったのです。一九町、大滝町、若松町と家々は全部といっていいほどつぶれていました。ただ豊川稲荷付近は僅かにそのままでしたつづいて平坂へとかかりました。左側には横須賀警察署(現児童図書館)があります。その屋根瓦が全部といってよいほどにすべり落ちていました。

 私は命からがらの思いで帰路を急ぎました。

 平坂をのぼり切り、中里、上町通りも全部と言う位に崩れ落ちていました。その潰れた屋根伝いに佐野町青物市場まで来ました。
そのそばが私の下宿先だったのでした。不思議にもこの付近地区は安全でした。ただ夜になって「津波が来る」との知らせがありましたが、これは事無く過ごせました。

 私は入廠直後からしばらくは田戸の波打際の家に下宿していたのでしたが、この年の7月いっぱいで佐野に下宿を替えたばかりの時だったのでした。

 この日夕方ころから火災発生の報があり、私達も心配したのでした。この火事で下町は殆ど全焼、上町では海軍病院(現文化会館)が全焼してしまいました。

 私の本家は山王町で綿屋を大きく営んでおり住居は土蔵造りでしたが、これまた全部崩れ落ち、私と同年配だったいとこは梱包された綿の荷の下敷きとなり圧死、腰の肉片一塊を残しただけの無惨の姿となってしまいました。

 綿という言葉からくるイメージは軽いと思い込まれがちですが、がっちり荷造りされた場合の思いがけない威力にその怖さを痛感されられた思い出があります。

 3日からは改めて工員全員に一週間の公休措置がとられる事になりました。私は位牌所の萩野の自宅に帰りました。そこで近所の方々と共にしばらく野宿を続けました。その間朝鮮人さわぎもあり、一時は心配もいたしました。また長井の浜には3000トン級の貨物船が浅瀬に打ち上げられたとも耳にしました。

 休暇が明け、工廠に戻った私達は10人程でチームを作り毎日さいかや裏の海岸でトロッコで運ばれてくる港町の山崩れの土砂を海に捨てる作業を手伝いました。2週間程もつづけたでしょうか。

 その時の話で港町の山崩れには女学校の生徒が大勢生き埋めになったとかいううわさもありました。私達が海に捨てたものは土砂のほか、大分海軍の食糧倉庫の物もあり、その量は全海軍の10ケ年分にも当たるとの話も言われて居りました。

 また油(燃料)関係も箱崎の重油タンクが焼け、10日間位は黒煙がもうもうと立昇り燃え続けたと聞いています。

 またこんな話題もありました。その時若松町の埋め立てに柿沼曲馬団の一行が興行中だったのでした。

 その所属した動物の事が心配されたが、この方も事なく過ぎたようでした。

 私達の土砂片付け作業が一旦打切りとなり職場に戻り夫々自分の業務につく事になりました。

 私は当時21歳の元気な若者でしたので、今考えて見るとこんな重労働の連続の毎日でしたが、頑張りきれたのだと思い返される事でした。

 これらの思い出は皆、69年も昔の思い出ですが、直接の体験だっただけに90歳になろうとする今に至るまでも生々しい印象として脳裏に深く刻み込まれています。

平成4年9月20日




出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/


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