//////////////  この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえ る大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月)   ///////////////


 東京は浅草に生まれ、当時本所(今の国技館のそば )に住み尋常小学校六年生でした。夏休みが終わり二学期の始業式を終え、弟が学級委員になったのを母に早く知らせたくて、急いで学校から家に帰り着いた、ちょうどお昼ご飯の直前(大正12年9月1日午前11時58分44秒)その時に突然襲った大地震。この私の第一の体験は、家の中でも歩けない程の大揺れでした。ゆらゆらと揺れ何かにつかまらないと歩けないような感じの揺れの繰り返しでした。家の中の棚からはものが落ち、家族に怪我のないのが不思議なくらいでした。驚きと恐怖で一時みんなすくんでしまい座り込んでしまいました。

 一応おさまった時に、町内の人がメガホンで「地震の揺り返しがあるといけないから、安田さん(時の安田火災海上保険相互会社の社長の自宅あの被服廠の広場へ行って下さい。」と、大きな声で歩き回っていました。母と弟二人を連れてご飯を入れたお鉢と水を入れた紫色のホーローびきのやかんだけを持って広場の中程へ行きました。家からは5分位の所でしたので、まだ人はあまりいませんでした。あとからあとから荷物を積んだ荷車がたくさん広場に入ってきました。夕方にはもう大変な混雑でした。

 暗くなってから隣の郵便局が火事になり、混雑している広場 にも火の粉が飛んできました。荷物の上にも火の粉が降りかかりました。そのため避難していた被服廠の広場も火の海になり、みんなが一斉に安田さんの庭(大変大きな広さでした)の方へ逃げ出しました。はじめのうちは家族が手をつないだりしてかけていましたが、大変な騒ぎの中でしたので家族がばらばらになってしまいました。私はそのとき転んでしまったのでした。あとから来る人たちに踏まれたり、おしつぶされたりして、その場に気絶してしまいました。それから何時間たったか何曰たったかまったく記憶がないままに時を過ごしました。

 焼けたあとの片づけ(ここで何千人もの人たちが亡くなったといわれています)をしている時といいますから、かなり時間がたっていたと思われます。在郷軍人の人たちが被服廠の広場に水をかけていて、身体から湯気が出ていた私に気づいて助けられ病院にかつぎ込まれました。病院で気がついたのです。全身にやけどを負っていました。本当に奇跡的に九死に一生を得たとしかいいようがありませんでした。被服廠の広場にはお骨の山が、五つも六つもできたとあとで聞かされました。隣近所の八百屋さんや魚屋さんなど一家全滅の家族が何軒もありました。私はといえば、まだ病院にいて、たまたま病院に家族を探しに来ていた家の隣の人が私を見つけたのです。母と弟二人の安否はこのときまでまだ分りませんでした。私の家も焼け落ちていたので、本家に連絡してくれて、すぐに父と叔母が病院に来てくれました。幸いにも全身のやけどは軽かったので、入院はあまり長くなく退院できました。

 入院中に当時の皇后陛下(今の皇太后陛下)がお見舞いに来て下さいました。ピースというはっかのお菓子(当時5銭の高価なもの)をお見舞いに頂いたこととあわせ、その時のことは一生忘れることはできません。

 母と弟たちはいくら探してもとうとう見つかりませんでした。母が34歳、弟たちはそれぞれ10歳、8歳、3歳でした。12歳のその時の私を思い出すには辛すぎる記憶です。今年80歳になりましたが、毎年9月1日には被服廠にできた納骨堂にお参りに行きます。その後、父にも早く死に別れ、以来数奇な運命を辿りました。

平成4年10月17日



出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/


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