////////////// この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえ る大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月) ///////////////
大正12年9月1日の大地震の時、私は伯母の嫁ぎ先葉山町木古庭の高橋綱吉さん宅へ行っておりました。
8月31日、当地の不動尊の祭礼に奉納芝居が盛大に挙行されるので、毎年楽しみに見物に行ったのでした。
大正12年9月1日の大地震の時、私は伯母の嫁ぎ先葉山町木古庭の高橋綱吉さん宅へ行っておりました。
8月31日、当地の不動尊の祭礼に奉納芝居が盛大に挙行されるので、毎年楽しみに見物に行ったのでした。
当時はまだラジオ、テレビ等全然ない時代でしたので芝居は何にも増して楽しみにしていたものでした。
役者は大変見事な衣装で、演題も現在では見る事も少ない、一二番隻から始まり、日蓮上人滝の回法難、塩原太助馬の別れ、一心太助等が思い出されます。
見物席は一般立見席の他、親戚用にと桝席が用意され、らくらくと見物が出来、終りは夜中でした。
9月1日は、昨夜の芝居見物の事もあつて昼寝中で、地震で揺り起こされたのでした。目を覚ました時、皆は屋外で大騒ぎで呼んでいました。
幸い、家は傾きはしたものの、倒壊は免れましたので、私も命拾いしました。
しかし、須軽谷の自宅が心配でしたので、駈歩で帰りました。
道中、道路は損壊、家屋も半、全壊、被害は瓦屋根の家に多いようでした。夢中で帰りましたが、途中家の裏坂が崩れ落ち、廻り道してようやく家に到着する事が出来ました。幸いに、家族全員無事であり、胸が一杯になりました。
母屋は半壊でしたが、牛舎と穀物入れの2棟は全壊、それでも幸いに牛は飛び出し助かりました。
横須賀方面では、火災のため重油タンクにも引火し、三浦半島は黒煙が覆い、薄暗くなる程でした。
当時、須軽谷は世帯数70戸程で、全壊は鈴木民造さん老夫婦宅1戸だけで、妻君が押しつぶされ、死亡されたとの事でした。
当時は広報施設がなく、相模湾に海賊船が来たとか、朝鮮人が暴動を起こしたとか、又刑務所から囚人が脱走し、悪事をするとか等々のデマがとび大騒ぎでした。
大正時代、当武山村は武、須軽谷、太田和、林の4部落で、葉山警察署の管轄になっており、地区毎に消防組が結成されており、部落に事件が発生した時は、消防組が出動して、鎮圧、救助にあたりました。
朝鮮人騒ぎの折りには、竹槍や猟銃、日本刀等を持ち出し、夜分は4、5名程度で警備にあたりました。朝鮮人にはかなりの犠牲者がでたようでした。
武山不動尊の須軽谷と武の境に当たる所に「滝の入り」という所がありますが、ここで吉田さんと言う人が枇杷、梅、栗等の果樹の栽培をされていられました。その住居が裏山の山崩れで押しつぶされ親子三人が生き埋めとなりました。消防組が救助に出動しましたが、大石のため、今とちがって手作業では手に負えずとうとう救出できず、お気の毒の結果でした。
又この近くに武山不動尊の願海上人という坊さんが文政年間に10年にもわたって水行されたことを記す石碑が立っておりました。この地震で滝壺に落ち埋まっていたのを、昭和51年、武山観光協会で引揚げ現位置に安置されたのです。この大地震の直後はまだ毎日のように余震もあり、農作業も落ち着いて出来ませんでした。
家の修復等も職人も少なく、隣組で毎日順番に家起こしをし、道具もキリン、ジヤッキ、金梃子位の道具で一時的の修理でした。
平成4年12月
出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/
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役者は大変見事な衣装で、演題も現在では見る事も少ない、一二番隻から始まり、日蓮上人滝の回法難、塩原太助馬の別れ、一心太助等が思い出されます。
見物席は一般立見席の他、親戚用にと桝席が用意され、らくらくと見物が出来、終りは夜中でした。
9月1日は、昨夜の芝居見物の事もあつて昼寝中で、地震で揺り起こされたのでした。目を覚ました時、皆は屋外で大騒ぎで呼んでいました。
幸い、家は傾きはしたものの、倒壊は免れましたので、私も命拾いしました。
しかし、須軽谷の自宅が心配でしたので、駈歩で帰りました。
道中、道路は損壊、家屋も半、全壊、被害は瓦屋根の家に多いようでした。夢中で帰りましたが、途中家の裏坂が崩れ落ち、廻り道してようやく家に到着する事が出来ました。幸いに、家族全員無事であり、胸が一杯になりました。
母屋は半壊でしたが、牛舎と穀物入れの2棟は全壊、それでも幸いに牛は飛び出し助かりました。
横須賀方面では、火災のため重油タンクにも引火し、三浦半島は黒煙が覆い、薄暗くなる程でした。
当時、須軽谷は世帯数70戸程で、全壊は鈴木民造さん老夫婦宅1戸だけで、妻君が押しつぶされ、死亡されたとの事でした。
当時は広報施設がなく、相模湾に海賊船が来たとか、朝鮮人が暴動を起こしたとか、又刑務所から囚人が脱走し、悪事をするとか等々のデマがとび大騒ぎでした。
大正時代、当武山村は武、須軽谷、太田和、林の4部落で、葉山警察署の管轄になっており、地区毎に消防組が結成されており、部落に事件が発生した時は、消防組が出動して、鎮圧、救助にあたりました。
朝鮮人騒ぎの折りには、竹槍や猟銃、日本刀等を持ち出し、夜分は4、5名程度で警備にあたりました。朝鮮人にはかなりの犠牲者がでたようでした。
武山不動尊の須軽谷と武の境に当たる所に「滝の入り」という所がありますが、ここで吉田さんと言う人が枇杷、梅、栗等の果樹の栽培をされていられました。その住居が裏山の山崩れで押しつぶされ親子三人が生き埋めとなりました。消防組が救助に出動しましたが、大石のため、今とちがって手作業では手に負えずとうとう救出できず、お気の毒の結果でした。
又この近くに武山不動尊の願海上人という坊さんが文政年間に10年にもわたって水行されたことを記す石碑が立っておりました。この地震で滝壺に落ち埋まっていたのを、昭和51年、武山観光協会で引揚げ現位置に安置されたのです。この大地震の直後はまだ毎日のように余震もあり、農作業も落ち着いて出来ませんでした。
家の修復等も職人も少なく、隣組で毎日順番に家起こしをし、道具もキリン、ジヤッキ、金梃子位の道具で一時的の修理でした。
平成4年12月
出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/
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