//////////////  この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえ る大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月)   ///////////////


 福本はつ私は父山清次郎、母ソヨの娘として西浦村荻野で明治40年11月25日に生まれました。母親は私が5歳の時には亡くなりましたので、みせ(藤田彦松)の家に引き取られ、そこで育てられました。みせの家のおばあさんは私の母の姉だったものですから本当の娘のような形で育てられたのでした。

 小学校は芦名の大楠小学校でしたが、その頃はまだ、西浦小学校と呼んでいました。この小学校の尋常科を卒業(大正九年二月)したのでした。小学校卒業後、普通の女友達は土地の習わしとして奉公に出て修業したのでしたが、私は家で家事をしたり、商いに行ったりしていたのでした。父親代わりになっていたおじいさんも兄分になっていたその息子も大工でした。

 そうしている時、あの関東の大震災が起きたのです。数え年17歳の時の事です 。

 次の思い出として書いた文章は、平成3年度横須賀市教育委員会が企画した「よこすかに生きた女性たち」第二集に収録された私の思い出話集の震災の部分をそのまま転記したものです。

 『あの日(9月1日)、やまさき(浜田和重氏宅)で蔵を建て、「今日は蔵のおくり木を打ちに行くんだから昼飯には早く来るから...。」とおじいさん達は言い残して出かけました。

 その朝は丁度よく長井から来る魚屋さんが「ぶだい」という大きな魚を持って来られたので、それを買い昼食はそれをおかずにして済ませました。

 食事も終わり、私は汚れた食器も洗い終え、ざるに納めて片付けようとしていたその時です。無我夢中で手にしていたざるをほつぽり出していました。食器は全部こなごな。全部つぶれちゃいました。

 地面はゆれっばなし、とても歩けません。おじいさんもおばあさんも家から出ることも出来ない始末。内庭に大きいけやきの臼があったのです。おじいさんは大声で「ここかがめ。ここへかがめ。」とどなっていました。

 私はそれでも夢中で外へとび出しました。しばらくして幾分おさまりました。年寄り達が「孟宗薮がいい。」と言うので取り敢えず竹薮に入ることにしました。

 その時分、うちは大工だったものでしたから、秋のお彼岸をひかえて正連寺さんに頼まれて塔婆を作っていたのでしたが、その残りの材料があったのでした。この材料を利用し、これを敷き並べ地震の合間を見計らつて大急ぎで家の畳を運び出し、その上に敷き、人畳程度の仮設座敷を作り、そこへ寝る事にしたのでした。

 私達はこうしてここで幾晩か野宿しました。

 しばらくしてお米の配給がありました。南京米です。お醤油を入れ、お醤油ご飯として炊いたのでした。そうすると臭みが幾らかは少なくなるのでした。しかしやっぱりおいしくないんです。

 内地米を混ぜて炊けば少しはまくなるのでしたが、この先どうなるのか予想もつきかねましたので、手持ちの内地米は大事に大事にがまんして外米ご飯も食べました。この地震では本当にこわい思いも苦しい思いもいろいろと経験しました。

平成4年9月



出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/

前のページへ : 目次へ : 次のページへ

▼ コメントする

▼ サイト内検索                複数キーワードは半角スペースを挿入