////////////// この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえる大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月) ///////////////
私は現在横須賀市上町に住んで居ります。生まれは今は米海軍基地になって居ります楠ヶ浦です。大正12年のあの関東大震災の時は諏訪小学校の二年生でした。あの地震の時おそろしかったので今でもよく覚えて居りますがなにしろ子供の頃の事ですので、断片的になるきらいはありましょう、思い出すままに記してみました。
私は現在横須賀市上町に住んで居ります。生まれは今は米海軍基地になって居ります楠ヶ浦です。大正12年のあの関東大震災の時は諏訪小学校の二年生でした。あの地震の時おそろしかったので今でもよく覚えて居りますがなにしろ子供の頃の事ですので、断片的になるきらいはありましょう、思い出すままに記してみました。
大正12年9月1日、この日は二学期の始業式でした。朝から大変蒸し暑い日でした。式が終わって家へ帰ると、この日は3番目の弟の3つ目の日でしたので中里(今の上町)に住んで居た叔母を迎えに行く様にと母の使いで下の弟と2人で家を出掛けました。帰りは叔母といとことの4人でした。
本町(今のロータリ辺り)にある花見せんべい屋で 「みやげを買って行こう。」のせんべい屋へ寄ったのです。その時すぐ外で突然「ゴー」と大きな音がしました。外へとび出したが、叔母さんが、「あぶないから外へ出るんじゃないよ。」と言われたが同時に揺れ始めました。何が何だかわからない。ただごろごろ、ごろごろと立つ事も歩くことも出来ない。そのうちに、家がつぶれ始めました。
材木に足を挟まれながらそれでも4人でやっと外へ出ました。道路は10センチ程に幾筋も地割れがして居ました。
隣は映画館だったのでしたが、もう火の手が立ったんです。ここは横須賀では繁華街でした。それに11時58分、ちょうど昼食時でもあったので、大滝町や若松町のあたりからも火の手が上がり始めたんです。
「早く逃げないと死んでしまうよ。」と言う叔母さんの声に、夢中で叔母さんの手をにぎって楠ケ浦へと向いていました。
やっとの思いで白浜まで来た所で楠ヶ浦の人に出会いま した。「切り通しが崩れて行かれないよ。」と言われました。止むを得ず海軍機関学校へと大勢の人にまじって避難して行ったのです。はぐれたら大変と叔母さんの帯につかまって学校内へと入りました。そして、ほっとしました。しかし、余震が度々くるので子供はあぶないからと、桜の木がある所でかたまって居りました。
時が経つにつれて市内から大八車に荷物や病人を乗せて来るのです。又、避難してぐる人も絶えず、広かった校内も大変な人数になりました。
荷物にも火がつきその中に衛兵所も燃え始め、更に火は建物や兵舎にまで燃え移り、それはそれ はおそろしい大火事になりました。そして今三笠艦がある海岸辺りまで逃げました。
昼間の様に明るかったのです。父は町の消防組員だったので、刺し子の消防服を着て、地震の後平坂から下町一帯を私達を探し歩いようですが見つからず、機関学校に大勢避難していると聞いて探しに来たのでした。家の名前の入った提灯をつけて大きな声で名前を呼びながら迎えに来てくれました。運良く会う事ができました。「よく生きていたなあ。」と言って喜んでくれました。
海岸から海兵団の中を通ってやっとの思いで家へ帰りました。叔母さんは家の者が迎えに来てくれたので中里へと帰りました。
家はどうにかつぶれなかったが見る影もなく壊れて居りました。
まだ余震が度々来るので山へ逃げ戸板の上にふとんを敷き蚊帳を張って一週間位野宿をしたんです。
そのうちにも「大津波が来る」とか、「朝鮮人が井戸へ毒を入れる」とかうわさが広がり井戸へふたをしたり男の人は夜警に出たりして大変な騒ぎでした。
9月6日ころ学校から通知が来て埋立地に集合する様にとの事で私達は今の市役所の所へと集まりました。
しかし中には亡くなった方も居りましたし、焼け出された方も居りました。大人の着物を着た友達も居りましたが、それは家がまる焼けになった友達でした。会えた友達同士はお互いに「よかつたね。」との一言だけでした。
街を見ると見渡す限り焼け野原で、若松町の田丸屋あたりがほんの少し残っているした。そして、山の上にある龍本寺がすぐそこに見えました。学校はつぶれなかったけれど、学校と同じ所にあった市役所はつぶれて いました。
食糧は2、3日たってから配給になりました。証明書が出たんですね。大きなざるを持ってお寺へ行列でもらいに行きました。お米は外米でした。梅干だの味噌だの人数に合わせての配給でした。アメリカからビスケットの缶詰をもらってうれしかった事を思い出します。当時、商売人は「現金でないと物を売ってくれない。」と親は嘆いておりました。2、3週間もすると、横須賀の町にもがバラックが建ち始めました。
海軍の備蓄の重油が真っ黒いけむりを空高く上げ、燃えていました。楠ヶ浦では切り通しはくずれましたが、火災はありませんでした。何人かの人が通行中に亡くなった と聞いています。
当分余震が来るので、寝る時には衣類はいつも身近な所へ置いておく様にしました。
子供の頃の記憶ですので、前したりして居りますが...。今各地で防災訓練をして居りますが、何か心もとないような気が致します。
年を取りましたし、字を書く事もあまりありませんでしたが、おわかり頂けると幸いと存じます。こんな事でお手伝い出来て有り難うございます。
平成4年11月 2日
出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/
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本町(今のロータリ辺り)にある花見せんべい屋で 「みやげを買って行こう。」のせんべい屋へ寄ったのです。その時すぐ外で突然「ゴー」と大きな音がしました。外へとび出したが、叔母さんが、「あぶないから外へ出るんじゃないよ。」と言われたが同時に揺れ始めました。何が何だかわからない。ただごろごろ、ごろごろと立つ事も歩くことも出来ない。そのうちに、家がつぶれ始めました。
材木に足を挟まれながらそれでも4人でやっと外へ出ました。道路は10センチ程に幾筋も地割れがして居ました。
隣は映画館だったのでしたが、もう火の手が立ったんです。ここは横須賀では繁華街でした。それに11時58分、ちょうど昼食時でもあったので、大滝町や若松町のあたりからも火の手が上がり始めたんです。
「早く逃げないと死んでしまうよ。」と言う叔母さんの声に、夢中で叔母さんの手をにぎって楠ケ浦へと向いていました。
やっとの思いで白浜まで来た所で楠ヶ浦の人に出会いま した。「切り通しが崩れて行かれないよ。」と言われました。止むを得ず海軍機関学校へと大勢の人にまじって避難して行ったのです。はぐれたら大変と叔母さんの帯につかまって学校内へと入りました。そして、ほっとしました。しかし、余震が度々くるので子供はあぶないからと、桜の木がある所でかたまって居りました。
時が経つにつれて市内から大八車に荷物や病人を乗せて来るのです。又、避難してぐる人も絶えず、広かった校内も大変な人数になりました。
荷物にも火がつきその中に衛兵所も燃え始め、更に火は建物や兵舎にまで燃え移り、それはそれ はおそろしい大火事になりました。そして今三笠艦がある海岸辺りまで逃げました。
昼間の様に明るかったのです。父は町の消防組員だったので、刺し子の消防服を着て、地震の後平坂から下町一帯を私達を探し歩いようですが見つからず、機関学校に大勢避難していると聞いて探しに来たのでした。家の名前の入った提灯をつけて大きな声で名前を呼びながら迎えに来てくれました。運良く会う事ができました。「よく生きていたなあ。」と言って喜んでくれました。
海岸から海兵団の中を通ってやっとの思いで家へ帰りました。叔母さんは家の者が迎えに来てくれたので中里へと帰りました。
家はどうにかつぶれなかったが見る影もなく壊れて居りました。
まだ余震が度々来るので山へ逃げ戸板の上にふとんを敷き蚊帳を張って一週間位野宿をしたんです。
そのうちにも「大津波が来る」とか、「朝鮮人が井戸へ毒を入れる」とかうわさが広がり井戸へふたをしたり男の人は夜警に出たりして大変な騒ぎでした。
9月6日ころ学校から通知が来て埋立地に集合する様にとの事で私達は今の市役所の所へと集まりました。
しかし中には亡くなった方も居りましたし、焼け出された方も居りました。大人の着物を着た友達も居りましたが、それは家がまる焼けになった友達でした。会えた友達同士はお互いに「よかつたね。」との一言だけでした。
街を見ると見渡す限り焼け野原で、若松町の田丸屋あたりがほんの少し残っているした。そして、山の上にある龍本寺がすぐそこに見えました。学校はつぶれなかったけれど、学校と同じ所にあった市役所はつぶれて いました。
食糧は2、3日たってから配給になりました。証明書が出たんですね。大きなざるを持ってお寺へ行列でもらいに行きました。お米は外米でした。梅干だの味噌だの人数に合わせての配給でした。アメリカからビスケットの缶詰をもらってうれしかった事を思い出します。当時、商売人は「現金でないと物を売ってくれない。」と親は嘆いておりました。2、3週間もすると、横須賀の町にもがバラックが建ち始めました。
海軍の備蓄の重油が真っ黒いけむりを空高く上げ、燃えていました。楠ヶ浦では切り通しはくずれましたが、火災はありませんでした。何人かの人が通行中に亡くなった と聞いています。
当分余震が来るので、寝る時には衣類はいつも身近な所へ置いておく様にしました。
子供の頃の記憶ですので、前したりして居りますが...。今各地で防災訓練をして居りますが、何か心もとないような気が致します。
年を取りましたし、字を書く事もあまりありませんでしたが、おわかり頂けると幸いと存じます。こんな事でお手伝い出来て有り難うございます。
平成4年11月 2日
出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
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