//////////////  この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえる大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月)   ///////////////


 私は明治42年4月27日、千葉県長生郡水上村金谷41番地の農家の四男として生まれ、大正12年9月、あの大震災のときは満14歳(中二)であった。

 一日はまだ学校も休みで、家族一同で昼食をとっているときだった。「グラグラ」と揺れだした。母が「地震だ。」と言い終わるか終わらないかといううちに大揺れとなり、家は「ミシ、ミシ」と音を立てて揺れる。

 一同は屋外に飛び出して、土蔵の側の大きな柿の本の下に避難した。

 そのうちに土蔵の壁が落ちはじめた。こうなると何時土蔵が倒れるかわからないので、広い庭の真ん中に避難場所を移した。ここなら母屋が倒れても、また土蔵が倒れても一応人には被害はないだろうと、一同かたまり、地震の怖さ等を話し合っていた。

 このときたまたま、大工さんが勝手の修理に来てくれていたのです。長い板を重ねて、台所から土間にかけて、斜めに置いてあったその板の上に私はいたのでした。

 こんなとき、一番身軽だった私は誰にもまして一番に戸外に飛び出してしかるべきであったのに、その板が上下にバウンドし、何時まで経っても止まらないので、板から離れる事ができなかったのです。

 幾分鎮まったすきを見て、ようやく戸外に飛び出し、家族の集結場所に行くことが出来た。

 家は、しばしばやって来る余震のたびに「ミシ、ミシ...。」ど音を立てる。何時倒れるかと思うと、気が気ではなかった。

 北西方の空を見上げれば既に黒煙は濠々と立ち上がり天をついている。東京の方向である。1日も2日もこの黒煙は北西の風に乗って東京湾を越えて五井町辺りまで来ていた。

 専売公社も造幣局も燃えたのか、この北西風に乗って、たばこの葉、一円札が混じって飛んで来た。我々子供たちはこの一円札を拾おうと、飛び来る空を仰いでは、その方向に走り回った。私は何10枚ものたばこの葉と1枚の一円札を拾つた。

 思い出はまた一日の事に戻るが、馬小屋も同様、大きく揺れたので、急いでオリギ棒(馬小屋の入口に取り付けてある棒)を取り外して馬を引き出そうとしたが、馬も驚いたのか、出ようとしない。馬の尻をたたいて無理やりに引き出した。ところが私の所から離れようともしない。

 毎日世話をしていた私の側にいれば...との思いだったのかと、馬ながら驚いた様子が思い返される。

 また忘れられない思い出に、デマのとんだ事がある。唯一の情報機関の新聞も発行されないままの人から人への言い伝えだけだったからか。その一つ「朝鮮人が井戸に毒物を入れる。」とのデマだった。

 どこの村でも町々でも、青年団では自警団を組織し、2、3人を一組として、夜となく昼となく、各々こん棒を手に手に持ち場をパトロールして回った。

 隣村では、そんなある晩、竹やぶの中に朝鮮人しゃがんでいるのを月の光を通して発見し、そっと寄り力いっぱい殴りつけた所、棒の先が折れ、それかえって自分の頭に当たり大けがをしたとの笑え事故もあったとか。

 相手と思ったその者は大きな石だったとか。

 また共産党の弾圧事件も起った。東京の混乱にじて行動するのではないかとの不安から、政府から命令か、軍部の独断だったのか知る由もなかったが共産党の首領、大杉栄は陸軍の憲兵大尉の手によ殺害され、その死体は古井戸に投げ込まれたとの件など、とにかく混乱の程が窺える事々だと思いされる次第です。

 私は大正15五年中学を中退し、海軍に志願し、横須賀海兵団に入団する予定だったが、横須賀海兵はこの震災のために倒壊し、当時建築中であったため京都府下舞鶴海兵団に入団した次第であった 。




出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/


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