////////////// この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえる大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月) ///////////////
大正12年8月21日、母と風呂の帰り道、その晩はとても美しい、星の降るような夜でした。
明けて翌9月1日、女学校一年生だった私は、まだ夏休み中。その朝はひどい雨でしたが、その雨もぱっと止み、雲ひとつない空、本当に日本晴れになりました。
大正12年8月21日、母と風呂の帰り道、その晩はとても美しい、星の降るような夜でした。
明けて翌9月1日、女学校一年生だった私は、まだ夏休み中。その朝はひどい雨でしたが、その雨もぱっと止み、雲ひとつない空、本当に日本晴れになりました。
近所の子供たちととんぼ取りに熱中していたその時です。「ズズン、ドシン」。横ぶれ、立っている事も出来ず、ただ、「ハア、ハア、」と、ころがったり、抱き付いたりで、声を出す者は一人としてなく、続く余震に不安一杯でした 。
前の水道山の山頂が上下に蛇のように動いていたのが今も脳裏にくっきり残っています。
ふと気が付いた時、すぐ後ろに1メートル半程もある大きな石の塊が落ちていましたが、いつ落ちたのか全然気が付きませんでした。
一人として声を出す人もなく青ざめた顔で抱き合っていました。
家の中は、棚の品々は落ち、柱時計は畳の上に11時58分を指して落ちていました。
柱は曲がり、水道は止まり、家財道具もみな倒れ、家の中は足の踏み場もない程でした。
その間も余震はしばしばおそいかかり、生きた気持ちはありませんでした。
当時、横須賀は海軍ど海軍工廠の全盛の時代でした。
海軍工廠に勤めていた人達は家の安否を心配し、職場を早退しパタパタと靴音慌ただしく家の前を通り過ぎ、各自白宅へと急ぎました。
しかし、私の家では一夜明けても父は帰りませんでした。母と共に泣いて過ごしました。結局、父は足を痛め歩く事が出来ず、5日後に手術、足の指を切除したのでした。
人達の中には、手をはさまれたり、足をはさまれたり、中には柱や梁にはさまれたりした人、そして亡くなった人も何人も何人もあったようでした。
そのうち、「津波が来るぞ。」「山に逃げろ。」という10月。私達は急いで近くの山に避難しましたが、幸いにも津波はなく、事なく済みました 。
それから三日三晩、余震におびえながら、蚊に刺されながら、ろくに食事も出来ぬ状態で野宿をした次第でした。
水道、電気は止まり、「井戸に毒を入れる。」などのデマもあり、飲み水もなく、食事の用意はしても地震が来ると火は消す始末。その上、3日後には雨も降り出したので野宿も出来ず、恐る恐る家に入りましたが、わずかなローソクをともして過ごしました。
この間の大人の人達の苦労は計り知れないものがあったろうと想像しました。
また、特にトンネルの多い横須賀、日浦間は、そのトンネルが崩れ、鉄道での輸送が出来ず、困窮は日数と共に重くのしかかって参りました。
しかし、救われた事は、9月5日に連合艦隊が続々と入港し、各家庭に軍用の乾パン、梅干しを配給して下さいました。私達もこれをいただきました。とてもうれしく有り難く思い、この時の感激は今でも忘れられずにおります。
「災害は忘れた頃にやって来る。」とか。今は亡き母はよく口癖のように教えてくれておりました。
当時女学校1年生だった私は、今83歳。しかも千葉県の田舎に転居し、生活している身ではありますが、今でも水だけは確保しております。醤油瓶20本程に蓄え、時々これを入れ替えて、不時に備えている次第です。
平成5年1月28日
出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/
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前の水道山の山頂が上下に蛇のように動いていたのが今も脳裏にくっきり残っています。
ふと気が付いた時、すぐ後ろに1メートル半程もある大きな石の塊が落ちていましたが、いつ落ちたのか全然気が付きませんでした。
一人として声を出す人もなく青ざめた顔で抱き合っていました。
家の中は、棚の品々は落ち、柱時計は畳の上に11時58分を指して落ちていました。
柱は曲がり、水道は止まり、家財道具もみな倒れ、家の中は足の踏み場もない程でした。
その間も余震はしばしばおそいかかり、生きた気持ちはありませんでした。
当時、横須賀は海軍ど海軍工廠の全盛の時代でした。
海軍工廠に勤めていた人達は家の安否を心配し、職場を早退しパタパタと靴音慌ただしく家の前を通り過ぎ、各自白宅へと急ぎました。
しかし、私の家では一夜明けても父は帰りませんでした。母と共に泣いて過ごしました。結局、父は足を痛め歩く事が出来ず、5日後に手術、足の指を切除したのでした。
人達の中には、手をはさまれたり、足をはさまれたり、中には柱や梁にはさまれたりした人、そして亡くなった人も何人も何人もあったようでした。
そのうち、「津波が来るぞ。」「山に逃げろ。」という10月。私達は急いで近くの山に避難しましたが、幸いにも津波はなく、事なく済みました 。
それから三日三晩、余震におびえながら、蚊に刺されながら、ろくに食事も出来ぬ状態で野宿をした次第でした。
水道、電気は止まり、「井戸に毒を入れる。」などのデマもあり、飲み水もなく、食事の用意はしても地震が来ると火は消す始末。その上、3日後には雨も降り出したので野宿も出来ず、恐る恐る家に入りましたが、わずかなローソクをともして過ごしました。
この間の大人の人達の苦労は計り知れないものがあったろうと想像しました。
また、特にトンネルの多い横須賀、日浦間は、そのトンネルが崩れ、鉄道での輸送が出来ず、困窮は日数と共に重くのしかかって参りました。
しかし、救われた事は、9月5日に連合艦隊が続々と入港し、各家庭に軍用の乾パン、梅干しを配給して下さいました。私達もこれをいただきました。とてもうれしく有り難く思い、この時の感激は今でも忘れられずにおります。
「災害は忘れた頃にやって来る。」とか。今は亡き母はよく口癖のように教えてくれておりました。
当時女学校1年生だった私は、今83歳。しかも千葉県の田舎に転居し、生活している身ではありますが、今でも水だけは確保しております。醤油瓶20本程に蓄え、時々これを入れ替えて、不時に備えている次第です。
平成5年1月28日
出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
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