//////////////  この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえる大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月)   ///////////////


 私は明治42年1月、当時でいつ神奈川県三浦郡久里浜村内川新田で生まれました。家は平作川の夫婦橋の近くで、屋号は「うなぎ屋」でした。農業とうなぎの卸問屋を営み、うなぎを三浦半島の料理屋に納めていたそうです。
私が三歳のとき父が死亡し、二人の兄は親戚の農家の作男として預けられ、母は私を連れ子として浦賀の官下の梅田治二郎といつ人と再婚しました。義父は母からは5歳も年下で初婚でした。また、優しい美男子でした。父は浦賀ドックの鋳造工場に勤め、母もドックの倉庫に勤めていました。家にはおばあちやんがいて、私はそのおばあちゃんにせても可愛がられました。洞井戸と言う所に寿座といつ芝居小屋があり、冬はマントを着てはそこへ連れて行ってもらいました。何不自由なく育ててもらいました。

 私は学校が好きで、女学校まで行きたかったのですが、母は至って遠慮深く、父の妹たちも行かないのに連れ子の私がと言って、高等科へ行きました。

 高等科1年修業の春でした。当時浦賀ドックの景気が良かったので、東京から浦賀に移ってくる商人がありました。大沢さんといつ靴屋さんが、東京深川から谷戸に引っ越してきました。アリアンズと言う靴を発明し、是非、浦賀ドックヘ納めさせて貰いたいと父に頼みに来たのでした。その人の兄さんも靴屋で、やっぱり深川から浦賀へ引っ越し、現在でも堀ノ内駅前で川村靴店としてあり、息子さんが店を商っています。今の川村さんのお母さんにあたる人だと思いますが、このとき日本橋のある木綿問屋に奉公して居りました。そこを切り盛りしている人の弟は、横田さんと申しましたが、三越に勤めていて、日本橋生まれの奥さんと結婚し赤ちゃんが生れ二人で暮らしておりました。この奥さんはあまり健康ではなく、心細いのでと是非女の子を欲しがっておりました。私は学校があと一年残って居りましたが、行儀見習いという事で東京へ行くことになりました。大正11年4月のことでした。

 家は電車通りから入った横丁、下谷区御徒町一丁目神田の和泉橋通りにあり、隣は神田佐久間町、そぼは下谷の一丁目と続き、上野公園にも遠くありませんでした。小さな3階建ての家でした。私が行くと、それはそれは喜んで下さって、娘同様に大事にして下さり、またいろいろ教えて下さいました。

 ご主人は三越の日本橋本店の外商部に勤めておりました。当時はまだ洋服等あまり着ませんでしたから和服専門で、華族さんとか有名な画家のお宅ヘお出入りして居りました。ご主人は独立のため、お暇を貰う様届けを出して居りましたが、三越がなかなかお暇を出さないためにとうとう神経衰弱と診断されてしまいました。休暇を貰い、大森の森ヶ崎海岸のある旅館へ静養に行ってしまいました。

 大正12年9月1日、その日はとても暑い日で、太陽の光も気味悪く、平常とは違いました。「何だか気味悪いわね。」などと言っていました。この日は二人で日本橋の歯医者へ行く事になって居ましたので、私はお昼の支度をと、粕漬けの茄子を切って居ました。11時58分でした。突然の大地震。階段はメリメリ壊れ、すぐ裏の瓦屋根の瓦が飛んできました。路地は狭ぐ、とても居られません。私は泣きながらも、あぶないからと頭に座布団をのせて、電車通りの市電の線路の上に座って居ました。

 私共の家の真向かいには上野の鈴本等への寄席に出る柳家とし松といつ小父さんが家族と住んでいて、この時も一緒でした。私が泣いていると、「千代ちやん、泣くんじやないよね。死ぬ時は皆一緒だからね。」と言われました。ことは今でも忘れることはありません。

 余震がひどく恐ろしく、またその内にあちらこちらから火の手が上がってきました。近くには三輪衛生試験場や、今では劇場になっている市村座がありました。当時は今と違って、余りビル等はありませんでした。ほとんどは木造瓦屋根の大きな家が主でした。あちらこちらから火の手が上がっているうちに夕方になり、大森に静養に行っていられるお父様の」とが心配になってきました。どうしてよいのかわかりませんでしたが、そのうち煙の中を神田方向から、和服に角帯、素足に草履の姿で、お父様が飛んで来て、「よかった。よかった。」と抱き合って無事を喜びました。

 電車通りは神田日本橋の間屋街から避難する大人車でいっぱいでした。私達も上野公園へ避難しました。このときとし松さん一家とは山ではぐれてしまいました。

 2歳の坊やにご先祖のお位牌を背負わせ、私がその坊やをおんぶして避難したのですが、東照官の中で、私は迷子になり、また泣いて居りました。日本橋伝馬町の風呂敷問屋の西川商店が横田さんのお姉様がそのお店の人たちと山で一緒になったのです。そのお店の人が私の名を大声で呼んでいてくれたのです。それで見つかり、また一緒に上野公園もあぶないというので、動物園前まで逃げました。東照宮からは東京の下町の焼け落ちる火の海を見ました。

 動物園前で一体みしておりますと、様々な流言飛語が聞かれました。伊豆大島が陥没したとか、朝鮮人が暴動を起こしたとか、誰もが本当と思いました。それから上野から谷中墓地を歩き、日暮里の道灌山で野宿しました。蚊にさされたりしました。

 そのうち、田端に渡部さんという三越のお友達が住んでいられるので、渡部さんを捜し尋ねて幾日か御世話になることにしました。その間も、夜は玄関前で竹やりを持って交代で番をして居ました。

 渡部さんにいつまでも御世話になっても申し訳ないと、日本橋のお姉さん(提灯問屋)の家族と一緒に、おばあちゃんの実家である千葉県の松戸の大きな農家を頼って、しばらくその家の離れを借りて厄介になっていました。その家のおばあちやんに嫌味を言われたりして、私は泣いたりもしました。

 私たちより、日本橋のお姉さんの母子がわがままで、「早く焼け跡にがフックを建てて帰りたい」とご主人を困らせました。男の人達は大変です。婦女子に泣かれるので、一生懸命です。その内、もとの場所にバラックが建つ様になりました。ですが、私達はひとまず小さな家を借りて、まだ新しい家を探していました。どうして見つかつたか分かりませんが、田端から本郷動坂町への境に商店向きの空き家があり、そこに移り呉服店を開くことにし、三越をやめさせてもらいました。

 親戚も木綿問屋が多かったので、ある手づるで、綿ネルが大量に入りました。田端は火災にはあわなかったのですが、着のみ着のままで焼け出された人たちも多く、綿ネルを婦人の腰巻き用に三尺二寸に切って売るのですが、人垣で行列が出来るほどでした。それはそれは忙しく、食事をする暇もない程でした。今、考えますと、本当におかしいと思います。

 そのうち追々地震もなく、世の中が落ち着いてまいりましたので、お店の丁稚さんを伊豆七島の新島、式根島から集めました。店では木綿を、外商では絹物染物等注文を取に山の手のお邸へ。ご主人は和服に特別な趣味と言うか天才といつか優れていた人ですから、商売の方は大繁盛。随分忙しかったので、今度は大通りに大きな家を買ってそこへ移りましたが、間もなく戦災でその家も焼いてしまいました。

 私は震災の後の大正13年夏、16歳の時に松戸で井戸水を飲んだためでしようか、チフスになり都立駒込病院に入院しましたが、お蔭様でよくなりました。その後は病気らしい病気は致しません。昭和12年、横田さんからの娘として結婚しました。25年まで豊島区の雑司ケ谷に住んで居りました。ただいまはそれ故郷の横須賀に住んで居りますが、夢にも思って居りませんでした。

 いろいろなことがありましたが、生きていてよかったと思って居ります。

 田端では芥川龍之介さんもすぐ高台にいられ、時折お見掛けし、文子夫人はよく晒等を買いにお出でになりました。自殺された時は私も田端に居りました。川合玉堂先生も私共のお得意先で可愛がって頂きました。只々懐かしいことばかりです。

 地震は突然起こります。一番恐ろしいと思います。地震は起きないようにと願つています。そしてお水はいつも用意しておかなくてはと思います。

追記

 皇室のこと関東大震災の時の皇室は大正天皇でしたが、天皇はお体が弱く、その時は日光の御用邸でご静養されていらしたと思います。それで今の陛下のお父様昭和天皇が皇太子で摂政官殿下となれて政務を司って居られ、良子女王殿下との御成婚が決まり神田明神の境内にその式場等も出来ていたのを覚えて居ります。ですが、震災のため、御成婚が延期になりました。

 皇居内は火災は起らなかった様ですが、皇居前は地割れがひどかったようです。日本橋銀座方面の人の大方は皇居前広場へ逃げました。その後幾日かすぎました。未だお若い皇太子様が愛馬白雪に乗られ、日本橋方面の焼け跡をご視察になられたのを私は遠くから拝見したのを覚えて居ります。後の昭和天皇ですが、その天皇はお若い頃からとてもご苦労の多かったお方に思います。

 あれから69年も過ぎ、大正から昭和と代わり、東京の復興には驚いておりました。昭和16年までは様々な事がありましたが、良い世の中だったと思います。

平成4年11月




出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/


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