//////////////  この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえる大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月)   ///////////////


 当時、私は豊島小学校の4年生でした。その日は2学期の始業式があっただけで午前中には下校していました。父は商店を営んでおりました。私は店の奥にある部屋で2歳の妹と遊んでいるときでした。いきなりグラグラッとなりました。
 父は店から飛んできて、妹を小脇にかかえ、母と私がその後に続き外に出ようとしましたが、余りにもひどい揺れ方で、立っていることはもちろん、はって行く事もままならず、両手、両ひざをついてフラフラするだけでした。父はそんな私を見て、私が履き物をさがしていると勘違いして、「ゲタなどはかなくていい!」とどなっておりました。あと少しで外に出られるところで、家が崩れてきました。幸いなことに父は頭に少しケガをしましたが、全員無事で、一足先に出ていた妹が材木を取り除いてくれたので、這い出ることが出来ました。

 家のそとはあちらこちらで、地割れがおきていました。倒れていた材木に乗って様子を見ていましたが、その間も何度か揺れ戻しがありました。

 通りの商店一帯は、すべて焼けましたが、私の家側は、火の出る家もなく、また風向きも幸いして、飛び火による類焼もありませんでした。

 私達は、軍の司令部(現在の横須賀国立病院)の敷地内で二晩ほど野宿をし、その後、元の家の場所にバラックを建てました。父は大変器用な人で、崩れた木材を利用して、金づちと出刃包丁でがバラックを造りました。そのバラックで、7、8年は寝起ききました。私が女学校を卒業する頃、やっと大工さんに家を建て直してもらうことが出来ました。

 震災の日は、1日でしたので昼食にあずきのご飯が用意されておりましたが、それを食べる前に家がつぶされてしまい、数時間後に、つぶれた家の中をあちこちさがして、やっと見つけドロで汚れた部分を払って皆で食べました。その後、食糧や毛布の配給も時々ありました。水は近所の井戸からポンプでくみ上げ利用しました。近くに住む親類の家も崩れましたが、なぜか風呂桶だけ壊れずにありましたので、まわりに囲いをめぐらせ、井戸水をわかして風呂に入る事もできました。

 通っていた学校は校舎もつぶれてしまいましたので、不入斗の陸軍の兵舎(現在の不入斗中学校)を借りて授業を受けました。そこは椅子はたくさんありましたが、机がまったくなく、各自でベニヤ板等で画板を作り、ひもで首からつるして机の代わりにしました。

 父の郷里の静岡からは毎年、梨が送られて来ておりましが、その時も駅には梨が来ていたのですが、数日後、一応、駅まで行ってみましたが、混乱した時で、どなたか食べてしまったのでしょうか、やはりありませんでした。

 家から汐入を通り横須賀駅へ歩いて行く道すがら、まわりを見ていました。あちこちで、焼け跡から煙がくすぶっておりました。崩れた家や、山からの上砂等が道をふさぎ、まともに歩けない状態でした。

 静岡に住む父の姉が、鉄道を乗り継ぎ不通の箇所は歩いて様子を見に来てくれました。伯母は、おそらく助かっていないだろうから、せめて骨だけでも持って帰ろうといつ思いで横須賀に来たのでしたが、全員無事とわかり、手を取り合って喜びました。

 今から思うと、いろいろな偶然や幸運が重なって全員が無事だったのでしょう。ご近所の方で、せっかく一時は外に逃げたのに、何かを取りにお手伝いさんと二人で家の中にもどり、崩れた家の下敷きになり、亡くなった方もいらっしやいました。家が壊れてしまっても家族全員が命を落とさず無事でいた事が、大変うれしく思われました。

平成五年一月



出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/


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