//////////////  この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえる大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月)   ///////////////


 前略御年賀状を毎年の様に私ごとき者まで頂き只々感謝の念にたえません。そして色々と御教訓まで書き頂き頭の下がる思いで感謝致して居ります。永く御元気であられます様にお祈り致して居りす。

 さて、賀状の折、書面にてあのおそろしい大地震の事に関してとお書きになっていらつしやいましたが、の思い出を一筆お日通り頂けましたら幸せに存じす。

 あの日は村のお祭りで学校をお休みしていましたお祭りのため親戚の者が来て居りました。兄が祖のためにと買った当時としてはまだ珍しかった蓄音機を皆で聞いて居りました。その時、あのおそろしい地震がおこりました。我が家はつぶれてしまいました。

 我が家はその頃は商いを致して居りました。田舎店ですから酒類や荒等色々とお店にありましたが、家がつぶれたため無茶苦茶になってしまいました家は2階建てでしたが、2階が下に落ちてしまいました。

 兄は体が弱く二階で休んで居りましたが、窓から外に出られた様でした。私は一人別の部屋にいて、外へ出られずにいました。隣の部屋では姉が食事の仕度をして天ぷらをあげていました。地震と同時に火の始末をしているのが私の場所から見られました。

 その内に、近所のおじさん方が来て、物をめくりめくり助けに来てくれました。おじさんが私の頭の上の方に来ましたので、「おじさん、ここよ。」といったら、「なぜ早く助けてと言わなかった。」と言われました。

 その日は寝る所もなかったのですが、丁度お祭りで隣の空き地には素人相撲のための土俵と桟敷も出来ていましたので、その所を借りて筵とトタン板を敷き、野宿をしました。

 夜になり外を見ると横浜方面や横須賀方面が火災で気味の悪い光景でした。幸い金沢の方では一軒も火災はなく、不幸中の幸いでした。

 横浜で花屋をやっていた家の息子さんが金沢のおじいさんの家にお祭りでしたので来ていました。金沢ヘ来ると必ず我が家にも遊びに来ますので、その日も来ていました。

 地震と同じに裏へとび出し無事だったのですが、横浜の家が心配で急いで見に帰ったのですが、住んで居た所は焼け野原。あちこち捜したが、とうとう両親兄弟の姿は見当たらず、翌日も捜しにいったが、無駄でした。

 私と祖母が「その人の家族は、鶴見のお寺にいる。」という同じ夢を見たのです。この息子さんはそこを捜しに行かれましたが無駄でした。居場所も無く結局は金沢のおじいさんの家に住む事になりました。

 この息子さんは私より一つ年上でしたが、その後、家族を持ち2人の子供と孫まで出来、落ち着いた生活をしていられました。風の便りでその息子さんも昨年の10月になくなられたと聞きました。

 まだまだたくさんの事がありました。谷津坂の方に一軒家の茶屋がありました。そこでも親戚の人が見えて居られたようで、私の祖母の兄もその所にいられたそうです。そこには12人居ましたそうです。そこには裏山があり地震のためくずれ落ち、11人の人々が生き埋めになり、とうとう夕方には死体となり運び出され、六浦の家へと帰ってゆかれるのは、痛々しい光景でした。ご冥福を祈りつつお送りしました。祖母の兄は足をけがし他一人はちょっとのけがですみましたが。

 もうあんなこわいのはごめんですが、こればかりは分かりません。「災いは忘れた時分にやって来る。」と古人は申しますが、本当にもうごめんですね。

 長々と取り留めもない事ばかり書き並べましたが、何事も御判読下さいませ。何としても高齢となり、物忘れも多くなり外出時には杖を頼りにしている今日この頃です。先生には只々頭の下がる思いで居ります。これからは寒さが厳しくなります故、十分御身体をお大切に遊ばされます様お祈りつつ。

草々

追伸

 実家の裏は地震当時はまだ田や畑でしたので、地盤も弱かったのでしょう。今は京急電車が埋め立て、金沢文庫駅が出来、戸数も多く成り横浜市金沢区谷津町となりました。実家は駅から十分もかからない所となりました。




出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/


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