//////////////  この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえる大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月)   ///////////////


 私は関東大震災のあった大正12年、佐島に生まれました。あの時はまだ、生後2ケ月程だったので、大地震の思い出は全然ありません。しかし、後日、成長してから聞いた話や、当時の世相等、参考になることもあると思われますので、記してみようと思います。

 当時の佐島は現在のトンネルはなく、また芦名への海岸道路もない時代だったのです。国道(134号線)へ出るためには、今のトンネルのある山を越えるか、佐島の中ほどから山道を越えて、今の大楠中学校辺りを通り出るしかなかったのです。

 トンネルのある山は「カンカン山」と呼ばれていた石山で、石を切る槌やつるはしの音が山にこだましたことからそのような呼び名が出たのだろうと覚えています。

 当時はまだ、トラック等なく陸上輸送等も不便な時代だったので、よその土地から石材を求める等の事はできず、近郷い近在で使用する建設資材としての石材はほとんどこの佐島石が利用されていたのでした。一般家庭の石垣やかまど石、三崎の魚市場の岸壁の石材もすべて佐島石が使われていました。石を積んだ荷馬車や佐島の浜から大きな石船へ、幅の狭いあいび板の上を石一本一本をかついで積み込む風景は、まるで絵のように今も思い出されます。

 さて、地震の事ですが、地震には地割れが起こる、その危険を防ぐためにも竹薮か石山へ逃げるといつことは承知していたらしく、この地震の時にも当然このカンカン山には大勢の人達が避難したようです。

 この避難について忘れられない思い出があるようです。私は8人兄弟だったのです。家族は逃げるのに夢中で、昼寝をさせてあった私を思い出さず、置いてけばりにして避難したとの事です。

 子供の少ない今時では考えられない事でしょうが...。

 佐島の海に毛無島という島があります。海面から1メートル程出ている平らな島です。この島もこの大地震までは海面上に姿を見せる事はなく、その上を船が行き来出来たのです。

 この島がこの大地震で海面上に見えるようになったのだそうです。

 三浦半島は全般的に隆起したといわれていますが、その具体例の一つです。

 カンカン山に避難していて、この事実を見た父は早速大きな桶を持っていき、この島でたくさんのさざえやあわびを捕って来たと言っていたのを聞きました。

 地震の直後には津波はつきものです。ここにも津波現象はあったとの事でした。この波の高さは佐島からは長井の岡と同じ高さに見えたとの事でした。毛無島の出現はこの津波来襲後の現象だったのでした。

 地震に伴う津波についてはこんな体験があります。関東大震災とは関係ないことではありますが...。

 南米チリ沖で発生した地震時の津波です。それは昭和35年2月23日の事です。

 チリ沖で発生した津波がその時、佐島の沖に設置してあった鰯の生け簀を襲ったのでした。30程もあった生け簀は錨綱が切れ、長井沖の亀城辺りまで流されてしまいました。また、その速度についても、チリはちょうどここから考えれば地球の正反対にあり、2万キロに及ぶ距離を一昼夜で到達している事実を考えた時、その速度がいかに速いものかを思わせられた次第です。


補記 チリ地震について / 永嶋照之助  
 
 地震観測史上最大と言われる巨大地震で、これに伴って発生した津波はチリ南部沿岸をはじめ太平洋各地を襲う。

 日本には地震発生から約22時間後に到達、太平洋岸の各地で被害を見る。

 死者合計142人、家屋2800、波高大船渡で4.9メートル、尾鷲で3.4メートル、ハワイでは10.5メートルを記録した。

 震源地と日本の距離2万キロメートル、伝播の速度は分速約15キロメートルになるわけです。



出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/


前のページへ : 目次へ : 次のページへ

▼ コメントする

▼ サイト内検索                複数キーワードは半角スペースを挿入