//////////////  この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえる大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月)   ///////////////


(資料もなく、ただ70年前の記憶をたどっての私の記録ということになります。)

 当時、私は浦賀の洞井戸(ぼらいと)の一番奥に住んでいて、浦賀小学の尋常科6年に在学していました。
 9月1日といえば、2学期の始業式の日です。その日は、昨夜来の荒天の余波で朝方は風雨のひどい日でした。難儀しながらの登校で、2、3人の友達といっしょでした。当時のことですから、筒袖の着物で足駄がけ、傘をさしての身なりでした。始業式なので通信簿を提出し、担任の先生から2学期の心構えなど簡単な話を聞いて下校しました。担任は米本秀吉先生で、学校長は斉藤篤太郎先生でした。下校する頃には風雨もおさまっていましたが、うっとうしい何となく息苦しい感じの陽気でした。下校途中友達と今日は泳げないので昼飯を食べたら海でも見に行こうと相談しながら帰宅しました。

 早昼を食べ今井という同級生と連れ立っていつも泳ぐ材木問屋の伊勢屋卯兵衛さんの海に浮かぶ材木置場へ向かいました。洞井戸は浦賀造船(正式には浦賀船渠株式会社)のドックを掘った上で谷を埋めて造った場所で二段になっていました。従って部落ではドックに関係する建物や民家が多かったのでした。私達は上の坂を下り、2つ目の坂にさしかかりました。その時突然地面が揺れ出し、大地震に遭遇したわけです。その場所は今の浦賀文化センターのあるところで、当時は浦賀ドックの表倶楽部の三階建ての割合新しい立派は建物が建っていました。坂道をはさんでの日の前の建物のところです。

 これは咄嗟に大地震だなと直感しました。それを直感したのは、前年の5月だったと思いますが、浦賀水道を震源とする相当大きな地震を体験したからです。思わず道の傍らの家の庭に立ってた1本の細い槙の木に2人ともにしがみつきました。到底立っていられるような揺れ方ではありませんでした。そうした恐ろしさの中に見たものは、家の中からころげるように出てきたその家のおばあさんでした。それから目の前に建っている倶楽部の中から窓をとび降りて道を隔てた高いがバラ線の張られた生け垣をとび越えて来た2、3人の者が、私達のしがついていた木につかまってきたことでした。さらにそうした中で見えたのは、工場の2階建ての設計課の建物が土煙をあげて倒壊していく有様でした。そしてその土煙の中から1人、2人と人の立ち上がる姿を見た事でした。その間どのくらいの時間が経ったのかはわかりませんが、ほんとうに長く感じられました。

 揺れもおさまり、2人は無我夢中でそれぞれすっ飛ぶようにして家へ帰りました。私の家も付近の家も倒壊することなく、皆無事でした。父も仕事の関係で在宅中でした。丁度昼食中だったそうです。姉には生後1年足らずの子がいたのですが、揺れのひどさに思わず子供を外へ拠り出したと言っていました。

 後になって聞いた話ですが、地震は午前11時58分に起こり、その規模マグニチュード8(7.9)ということでした。その後も余震が何回か続き、到底落ち着いてはいられませんでした。ただわけもなく建物から離れた木の根本あたりに戦きながら長い間じっとしていました。これも後になって気がついたのですが、埋めた地面と前からの地面との間に割れ目がはっきり出来ていました。まだ日の長い季節でしたが、ほんとうに落ち着かない1日で、その中に空の色が濁り、太陽の光も異様な、くすんだ色に蔽われて来ました。これは横須賀海軍の油槽が燃えての現象だったことを後で聞きました。

 とにかく、その日は何をするという術もなくじっとしている外はありませんでした。父は日頃御世話になっている家へ出掛けていきました。間もなく御世話になっている家の人達とここなら安全だということで、庭先に筵を敷いて避難場所ときめました。幸い暑い時期だったので取りあえず野宿することにして、筵の上に布団を敷き、本の枝などを使って蚊帳を張って寝ることにしました。2晩野宿をしました。

 6年生だった私には、これぞという仕事もなく、ただその辺をウロチョロしているばかりでした。しかし、次々に伝わってくる災害のひどさは大人にとつては大変なことだったと思います。とにかく、事後のことがみな肩にかかってくるのですから。復旧といってもそう簡単なことではないでしょうし、とくに町政などにたずさわっている人々の苦労は今から考えると想像に余りあるよう思われます。まず、衣、食、住の問題が差し当たっての課題でしょうから、ただ、東京、横浜、また横須賀の下町の焼失区域の人とちがって、その点はやや救われた環境にあったといえる気がします。外国から救援物資も届くようになり、食糧としての米、衣料として毛布などが配給されました。「南京米」ということばは始めて知りました。

 次に、私の知っている範囲で災害の概要を記してみたいと思います。近くではドック原の崖崩れで通行中の人が生き埋めになったと聞いています。又、もう一ヶ所愛宕山のところで、数十軒の家と逃げ遅れた人が土砂に埋もれて亡くなっています。ここでは同級生の一家が亡くなりました。ただその時、同級生は受験勉強で学校に居残っていて助かりましたが、身寄りもなく、その後間もなく神戸の方の親戚に引き取られて行ったといいます。市街地では家の倒壊より火災のために全滅、10万人以上の人が亡くなったと聞いています。ちょうど昼飯時だったので、火の始末が遅れたためだといいます。浦賀地区では、谷戸の一部が倒壊と共に、何軒かが焼失、ここでも同級生の父親が家の下敷きなり脱出出来ずに焼死した哀話が残されました。相当傾いた家もあり、2階建てが潰れて3階がそのまま住居として使われていた家もありました。しかし、何といっても私達子供にとって影響の大きかったことは学校が全壊したことでした。先生方と共に居残りの受験勉強の数人は全員無事であったことは、不幸中の幸いでした。

 ただ、学校の倒壊によって私達は勉強する場所を失ってしまったわけで、自然に夏休みの延長のような休校状態になってしまいました。通学の機会を失った私達は、これぞといつ目的のない生活で毎日を過ごすことになりました。したがって大人たちの復旧の仕事をよそ目に毎日が遊びの時間になってしまいました。近所のもの同士が集まっては、鬼ごっこ、かくれんば、メンコ、縄跳びなどをして楽しい日々でした。ようやく10月に入って学校再開の知らせを受けました。

 いよいよ10月15日から学校再開ということで、私達は学校から山ひとつ越えて馬堀にあった(今の馬堀小、中のある場所)陸軍重砲兵学校へ通い、兵隊さんの勉強する教室の間借りです。勉強時間は一日2、3時間だったでしよう。通学したのは6年生、高等科だったと思います。低学年については記憶がないのですが、多分倒壊を免れた分教場やお寺などの分散授業だったとおもいますが。3学期には後片付けも終わった校地に丸太とトタン葺のがフックの校舎が建てられ、地面の上での勉強ということになりました。厳寒の季節なので時に暖をとるため地面に穴を掘り焚き火をしたこともありました。6年生の卒業はそんな中で行われたと思います。高等科に進学した私達は、新校舎の建築が始まるというので、今度は遠く離れた大津小学校の間借りの勉強ということになりました。往復6キロ以上はあったと思いますが、さして苦にならず、むしろ楽しい通学であったように覚えています。途中での道草、買食など先生ににらまれた思い出があります。勉強時間はせいぜい2、3時間、勉強道具は風呂敷に包んで抱えて行く程度でした。電車、自動車などの通っていない時代でしたからもちろん徒歩の通学です。ただ、当時唯一の交通機関として学校のところから何台かの馬車が旧市内(聖徳寺坂下)までを往復していました。いつまで大津小学校通学したかははっきり覚えていませんが、そうこうしているうちに新校舎が出来上がりました。スレート葺の1階建てで、校庭を中にコの字型でした。とにかく、新校舎で落ち着いて勉強が出来るようになり、無事高等科を卒業することが出来ました。

 余談になりますが、震災時は兄は東京の深川にいて、つぶさにその惨状を目にしています。時々、命拾いした時の話を聞きましたが、想像を絶するものがあります。とくに、東京から貨物列車に乗り、大船で下車し、徒歩で浦賀へたどりついた話など印象深いものがあります。

 翌年の1月15日にも相当大きな地震に見舞われましたが、何といっても地震国である日本に住む私達は防災の心構えをひと時もゆるがせに出来ないことだと思います。



出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/


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