//////////////  この記事は「関東大震災の思い出」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえる大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月)   ///////////////


 昭和54年(1979年)は長井小学校創立90周年に当たりました。これを記念して記念誌「長井のあゆみ」をまとめました。その文中「関東大震災の記録」がありましたので、参考にとその部分を抜粋しました。
 大正12年(1923年)9月1日午前11時58分に、相模湾北西部を震源地とする大地震が関東一円をおそいました。ちょうど昼食時であったため、東京や横浜では火災が各所に発生して大被害となりました。三浦半島各地においても大きな被害がでました。特に横須賀市の被害が大きかったのです。それは、 火災と崖崩れによるものでした。市の中心部である大滝町・小川町一帯は焼け野原となったのです。横須賀市の死者・行方不明者は708人です。長井村などの三浦郡の被害は、これより少ない588人でした。いずれにしても大きな被害であったことには、変わりありません。次に長井村のようすについて見てみましょう。

○ 被害の様子

 長井村の被害は、死者10人・負傷者8人・ 家屋全壊6・半壊50。漁船全壊10隻・漁船小破90隻・崖崩れ5ケ所となっています。これが直接的な被害であり、このほか地震による土地隆起が1メートル以上もありました。このため、船の出入りが不自由になるとともに、海藻が死ぬなどの被害も大きかったのです。

○ 朝鮮人暴動の流言

 東京・横浜など被害の大きかった所を中心に、朝鮮人暴動の噂が広まり、自警団や在郷軍人会などにより取り締まりなどがおこなわれました。このときは、大地震による人心の動揺によって、罪のない人々にいろいろな被害があったようです。長井にも噂がはいってきたと見え、若者が2日の晩横須賀戒厳司令部に、あやしい船が来て朝鮮人が上陸して村人を襲うなどの報告をしました。あとでこれは、房州の漁民が水をもらいに来たのを、なれない方言で話したため朝鮮人と間違えたものであることがわかりました。当時のようすについて老人は、村の若者は手に手に漁に使うフシなどをもって警戒にあたったという話をしていました。そのほか、佐野方面に朝鮮人60人が来たとか野島の方に朝鮮人100人が襲来したなどの噂がありましたが、これも全部虚言でした。

○ 関東大震災の奇特者

 奇特者といつのは、いまの人命救助をした人などよいことをした人のことです。長井でも、関東大震災のときに倒壊する家がありました。大木根1119番地に柴崎仁助といっ人が住んでいましたこの人の家も関東大震災のときに倒壊したのですが、それにもかかわらず倒壊した家の下じきになっていた、原田栄吉の妻ハナ外1名と中川銀蔵妻ヨシ外三名を大工道具を使って救助しました。

○ 震災後のようす

 いまだなかったような大地震によって、人心が動揺しているときに食料問題や朝鮮人上陸の噂がおこり、長井の人々を不安にしましたが、それらのことも救助活動がうまく進むようになってやわらぎました。漁業者も津波や土地の上昇などによって、漁業ができるのか不安で漁にでることができません。このため生活が不安になりました。しかし、これも地震後の専門家の意見によって、安全であることが分かり漁にでることができました。また、震災後長井に避難して来た人が、22世帯88名ありました。長井の人々と避難してきた人は、各地からの慰問品や寄贈品を配給され、また食糧品や衣類の配給を受けました。米は、自米・外米が一人1日3合を標準に無償で配給ざれました。小学校は、全壊してしまったために授業ができなくなってしまいました。そのため、応急措置のできた3教室を使って二部授業するとともに、青年会堂・神社・活動(映画)小屋などを借りて不完全ですが二部授業したのです。



出典:関東大震災の思い出(平成8年9月1日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/


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