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さるこが突然言う。「今日。春呼が来たみたい」「えっ!」。私も午前中仕事をしながら、仕事場上の屋上がなんだか騒がしいなあと思っていた。屋上で永田農法の準備をしていたさるこのそばでモルタル床をかりかりしていたらしい。それは生前春呼がさるこのそばでやっていたのと同じ音らしいのだ。

聞くと今日ML(メーリングリスト)で知り合ったさるこの知り合いの愛犬が亡くなったのだと。きっとその犬と一緒に春呼が我が家の屋上に来たんじゃないかという。『ああ。春呼は久しぶりに来たのか...』と私も思った。そういうことってあるんですよ。私はそのさるこの話に感慨深げにしんみりはっきり『春呼久しぶり』と心底思ったのです。

べたな言い方だけど、思い合っていると遠く離れていても通じ合うことがかなりある。それは言葉がしゃべれる人間同士ならなおさらのこと。今電話しようと思っていた瞬間その相手から電話がかかってきた。なんてしょっちゅうあるはず。犬と人間の場合。言葉は通じなくてもコミュニケーションは人間以上にできる。アイコンタクト。この非言語コミュニケーション、犬にとってどうかわからないが、人間はかなり一方的に親愛の情を持つ。片方が親愛の情を持つと勝手にお互いにそうだと思い上がる癖が人間にはある。でも犬は何も言えない。きっと、わかってないなぁあいつは。なんて思っているかもしれない。でも、死んだあとでも、たまあにやってきてくれると、あいつもそこそこここにいたことが嫌ではなかったんだなあと。また勝手に思ってしまう。でも、うれしい。

死ぬということは単に個体がこの世からなくなるということであって、つながった気持ちは永遠に無くならないんだなあとあらためて感じた。今、春呼の遺骨は私の寝室にある。そこで毎日『春呼。元気でそっちでもやっているか?』なんて手を合わせたりしない。忘れた頃に。ああ。そこにいたか。と思うだけである。「千の風になって」の歌のようにきっとそこにはいないのだろう。でも、たまに今日こんな奴がこっちにきたけど、とーちゃんかーちゃん知ってるか?って来てくれると、単純にうれしい。と同時に。体が亡くなることと今生きていることってどう違うのだろうと考えさせられる。

バナーの写真。つい数日前。たまには春呼のことを書こうかなと思って用意していた写真だった。めったに頭にリボンなんかしないのにかーちゃんがいたずらで赤いリボンを付けたときの写真。こんな写真をネタにブログを更新しようと思っていたのも単なる偶然ではないような。もっとゆっくりしていけばよかったのに。

▼ コメント(2)

いい話ですね。
「なるほど、そんなふうにしてやってきてくれるのかあ。」なんて、思いながら読ませて頂きました。
今の家に移り住むとほぼ同時に家族に加わったうちのLauraも早6歳半になりました。
お二人に工夫して頂いた彼女の居場所は、いつも心地良い風が通り抜けて、とても居心地が良い場所になっています。
ごろんさんとさるこさんとは、子犬の頃から何度かお会いしましたね。
はしゃぎ癖は相変わらず健在ですが、それでも徐々に体力が落ちてきていることを最近感じます。
今日は一日雨らしいので、シニア同士室内で大人しく遊ぼうと思っています。

コメントありがとうございます。

そうですか。もう6歳半になりますか。
ということは、すまいも6年以上になるんですね。
ええ?もうそんなに?と
まだ、それくらいしか経っていない?…
の両方が混在しますね。

ローラちゃんには長生きして欲しいですね。

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