////////////  この記事は「関東大震災の思い出 追録」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえる大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月)   /////////////


 永嶋さん、こんにちは。先日の「逢う日話す日」にお約束した関東大震災のこと、ふだん記79号に小生の投稿が掲載されていましたので、それのコピーをお送りします。

 当時私は八王子市の中心部の南新町に生まれてそこに住んでいました。大地震の翌日避難した楢原の橋本家は橋本義夫先生の実家で、大叔父は北浅川の松枝橋等土木工事請負をやっていました。

 住民の不安に対して戒厳令が発令されて、兵隊さんが姿を見せて要所要所を固めたので流言飛語はたちまちおさまって、人々は安心したのでした。

 この大地震の震源は相模湾ということですが、その海岸一帯、三浦半島から房総にかけて、約2メートル隆起し、内陸の八王子辺りは約2メートル低下したと言われました。以上が小生の知り得た大地震のあらましであります。

 お知らせが大そう遅れて申し訳ありません。寒さに向かう折から一層のご健勝を祈ります。

平成4年12月8日

 大正12年9月1日、府立第二商業の1年生で2学期の始業式から帰り、仏壇前の部屋で昼食をとっていたのが正午前、突然地鳴りと共にガシヤガシヤと大きく揺れ出した。驚いて店の間をつっきり、表の縁側前の太い青桐の所まで行き縁側につかまっていた。祖母と母も暫くして辛くも立って、祖母は「まんざいらくまんざいらく」と唱えていた。中庭の向こう側にある土蔵は壁が割れて土けむり「ああお倉が」と母が叫び声を挙げ、祖母は「大文夫、倒れはしない。」と強くたしなめた。

 この世の終わりになるのかと思われた大揺れがどうにか止んだが、立っている地面がずり下がった様に思われた。近所の魚屋の関根さんが「大きな地震でしたね」と声をかけてきたので、ああこれも地震だったかと知らされた。揺り返し(余震)がひっきりなしに続き、裏庭に縁台や筵を敷いて桐の本の下に近所の人達と集まっていた。2時半にまた大きなのがくるとの噂も間かされたが、強い余震が次々くるので驚く程のこともなかった。

 晩には家の中に大きな茶箱を並べてその間に寝た井戸水は白く濁っていたがこの濁りが、翌日の朝鮮人騒ぎの「井戸に毒を入れた」という流言を、さてはと信じ込ませることになったと思われた。その2日の午後、学校はどうなったかと上野町まで行ってみたが、屋根瓦のむねのところが落ちただけで、他には破損が見られなかった。帰って来ると家では例の騒ぎ「朝鮮人の部隊が富士森から上野町の方にやってくる」という。「たった今、商業高校の所で何事もなかったのを見て来た。」と言ったが「とにかく子供達は楢原へ行け。」といつ祖母の指図で、母と弟妹と共に五人、父に送られて急いで出かけて、夕方早く橋本家に着いた。

 その晩は裏の竹薮でその近所の人々と共に莚の上に座っていたが、余震の度に足元の大地がズシズシと揺れた。八王子の方で銃声がしたり、日本刀を帯にぶち込んで武装した人が巡回して来たりしたが、大叔父さんの「戸外で夜明けするのはよくない。」との意見で大きな母屋に入った。騒ぎが収まるまであと数日、橋本家で安心して過ごしてから南新町へ戻った。

 新聞はまだ間に合わず号外がきていて「江ノ島は海底深く没落せり。」とあったのを覚えている。これは全くの流言であって、湘南、三浦半島、房総に至る南側一帯は2メートル程隆起し、内陸の方(八王子も)は約2メートル低下したのであった。電灯はつかずローソクの夜が続いたが、7日後「一灯だけ点灯してよい」となった時は有り難いと思った。学校は2週間休校、15日から登校となったが、その朝、学校(現在の市民会館の所)に近づいた時にも余震があった。しかし回数は減って授業時間中に教室外へ出る程の余震は、年内に一回あっただけで大したことはなかった。

 翌年1月15日早朝の余震は最大のもので、寝間着で外にとび出し凍った防火用水の樽につかまつていた。震源が丹沢山ということで、その山肌は赤土の崖ばかりになってしまった。この余震で井戸はまた濁り、修理成った土蔵の壁もまた割れた。余震の時には「ゴーッ」と地鳴りがして、ズシズシと揺れがくるのが多かったが、ガタガタガタと上下動ばかりのがあったり、ユーラユーラユーラとゆっくりした横揺れのものがあったり、揺れ方にもいろいろなのがあるのを経験したが、専門的なことは判らない。学校の理科室には地震計が置かれ、大きな円筒形記録紙が回り、毎日先生がこれを取替え、煤紙にニスの様な液を流して仕上げてから、その筋に送っていた。6年間通った天神町第四小学校に東京方面から焼け出されて来た人々が入ったので、一部の生徒は尋高(今の第七小)に通い、そのため午後から登校する等の一部授業が行われた。

「不意の地震に 不断の用意」

これがその後唱えられた標語なのだが、地震対策はこれに尽きると思っている。

平成元年10月23日



出典:関東大震災の思い出 追録(平成8年11月3日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/


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