////////////  この記事は「関東大震災の思い出 追録」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえる大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月)   /////////////


 年賀状頂いてすぐ書き始めた「関東大震災の思い出」、忘れるともなく忘れて、今日になってしまいました。お許し下さい。三浦とは遠い、しかし震源地に近い足柄での思い出ですが、お仲間に入れて頂ければと考え、お送り申し上げます。よろしくお願いします。

 お元気でご活躍の程を心からお祈り致します。

 大正12年9月1日、忘れもしないあの関東地方の大地震。震源地は相模灘(なだ)の西方。

 私はその時、小学校の三年生でした。第二学期の始業式で学校は半日でした。当時私は出生地、足柄上郡大井町高尾(当時の上中村高尾)に居住し、小学校は4キロ程離れた赤田部落にありました。学校から帰り、「腹へった。」とカバンをなげ出すと問もなくのことでした。

 グラグラと大揺れに家が揺れ、建物ががたぴしとゆがんで行く音がしました。母が「そら地震だ」と叫んで座敷をはい回っている弟を小脇にかかえると表にとび出していきました。

 私の家はその頃、本家から分かれた水呑百姓でしたので、百姓の合間に昔からあったらしい水車をやりながら生活していました。家は、長い間に川水に浸蝕された岩盤の上に建てられたらしく、水車に来る人から、「昨日は大きい地震がありましたねえ。」等と話には聞かされていたものの、地震の「ゆれ」を体験したのは初めてでした。母の叫び声につられて私も夢中で外へとび出しました。川を隔てた、一段高くなっている前の「河原田」畔にはえていた草や木は一本もなく、全部川へと落ち込んで、もうもうと土煙が立っていました。煙草を乾燥させるために庭に建てられた牛柱にしがみつきました。庭には幾筋も地面に割れ目が出来て、その中に落ちはしまいかとびくびくでした。外に出遅れた妹は家の中の畳の上をあちらこちらにごろごろ転がされていましたが、助けに行くにも足がたちません。安政の地震とかで相当柱が傾いていた我が家でしたが、幸い分家の時に建て増した新しい座敷のおかげか幾分、前よりも傾いたものの倒潰はまぬがれました。

 やがて畑から帰ってきた父や兄が家に入るのは危険だからと言うので座敷より一段高くなっている裏の畑に雨戸を敷いてその上に莚を敷いてその上に座りました。2歳(数え年)になったばかりの弟は皆が集まって来たので喜んで家族の者の肩から肩へと渡り歩いて喜んでいました。ゆるき(火を燃やす所)にかけてあった鍋がゆるきの火の上に落ちてお粥が出来上がっていたので家の中から、食器をとつてきて家族全員で食事をとりました。そこから見える本村の方では潰れた家や傾いた家があるようで今までとは違った眺めでした。

 やがてのどが渇いたので水車の水の取入日の方へ下りていきました。すると、土砂崩れで水がせき止められて苦しくなった鰻が泥から首を出しているのが見つかり、家からバケツを持ち出し、捕って帰って晩には鰻の「かば焼き」を食べたことが、何時までも印象に残っています。

 後で聞くと、二晩も三晩も外で寝た家が多かったようですが、我が家では、その晩から新しい方の家で寝ました。電灯は私が小学校入学の前の年に灯ったのですが、もちろん停電でした。昔使用したランプがとってありましたが(電灯がついても時々停電があつたので、用心のため)、来客用に使う油壺がわきにある西洋ランプを灯したのですが、父がそれを取り落として割ってしまいました。きっと家族のことを心配して何回か起き出してのことだろうと思います。そのことについて家族の誰からも非難の声は出ませんでした。

 たしか、翌日からだったと思います。何処から聞こえてきたのか、朝鮮人騒ぎがありました。「朝鮮人が井戸へ毒を入れるとよ...。」「朝鮮人が大勢やって来るとよ...。」「朝鮮人が殺されたとよ...。」とか誰が何処から聞いてくるのか、流言飛語はまたたく間に乱れ飛び大混乱となって行くのです。戒厳令がしかれたとかで、そんなうわさもいつしか消えて学校が再開されたのは一週間位たってからか、はっきり記憶にありません。

 学校が再開されて間もなく、多方面から慰問品が届くようになりました。衣類が多かったようですが、その中ではっきりと記憶に残っているものが2品あります。その一つは大阪府から贈られて来たオルガンです。当時分教場だった赤田小学校にはオルガンが一台しかありませんでした。それが二台になったのです。もう一つはオーストラリアから送られて来た羊の肉を中心にした缶詰です。私たちはそのおかずがあるため、何週間もおかずなしの弁当で通学したことも思い出の一つです。

 余談になりますが、秦野市の南方足柄上郡中井町境に震生湖という湖があります。今は秦野名所の一つになって太公望が釣りを楽しんでいますが、ここは水無川の一支流が震災でせき止められた湖で、小原といつ小字から秦野南小学校に通っていた子供が二人生き埋めになってなくなった所で、死んだ子供達が母親の枕元に立って、「頭が重いよ、頭が重いよ。」といったそうだ等の話もいつしか忘れられてしまった。

平成5年2月9日



出典:関東大震災の思い出 追録(平成8年11月3日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/


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