//////////// この記事は「関東大震災の思い出 追録」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえる大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月) /////////////
震災忌
9月1日
第2学期始業式は終わり
生徒たちは家に帰っていた
震災忌
9月1日
第2学期始業式は終わり
生徒たちは家に帰っていた
尋常小学校2年生の
わたしも家に帰っていた
昼食をすませていたであろうか
すませていなかったであろうか
記憶していない
60年前のことであるから
衣服は洋服でなく着物を着ていた
60年前のことであるから
それは白い絣の着物であったろう
60年前の
季節は初秋であったから
蝉が鳴いていたであろうか
「蝉鳴いていたかも知れぬ震災忌」
物すごき上下動
凄まじき水平動
大正12年9月1日
午前11時58分
あの日父は茶の間に常時置かれている角火鉢の前に座っていた。ここは父の座で、くつろいでいる時はいつもここに座っていた。
父の後には、幅2尺、高さ1間ぐらいの茶器などを入れる戸棚があった。扉は片開きの障子張りの古いものだったが、それが父の背中に倒れて来た。軽いものなので怪我はなく、身を低くすると戸棚は角火鉢を枕にした形になって、父はその空間に身を低くじっとしていた。
自分の部屋にいた私より6つ上の兄が逃げて来て、父の背中にすがりつくようにもぐり込んだ。
7歳であった私は、母(育ての母。生みの母は、その2年前の大正10年6月17日、当時5歳の私を残して亡くなった)の手に引かれ、座敷の中をただうろうろと逃げ惑った。
私はあわてなかった父の姿と、母の手に引かれうろうろしたことを、今もってはっきり思い出せる。
10上の一番上の兄は、表で自転車のタイヤに空気を入れていた。西浦賀の方へ父の言いつけで出掛けたが、少し家を出たところでタイヤの空気が気になって帰宅して空気を入れているところだった。もしそのまま出掛けていたら、時間的に言って浦賀ドックのあたりで、大きな山崩れにあって生き埋めになったろう。この事は、後年になって兄はよくみんなに話していた。
私の家はひどく傾いたが倒壊は免れた。しかし余震が頻発し(記録によると、初震以降の東京における有感覚の余震数は、9月5日午前6時までに926回以上、9月1日だけにしても午後6時までに171回以上あった)危険なので、庭の芝生にうすべりを敷き、当分ここで暮らした。
浦賀の町も約半数は倒壊し、それに大きな山崩れが2ヶ所、崖崩れも処々あって多数の死傷者が出た。しかし民家からは火災を出さず、東京、川崎、横浜等のような大火災による二次的災害はなかった。これは、お昼時であったにもかかわらず、各家庭での火の始末をきちんとしたからであろう。浦賀造船所は火災を起こしたが、民家に類焼しなかった。
私たちが住んでいた三浦地区は、大震災によって隆起し、浦賀港は一時海水が無くなったという話もあった。横須賀沖にある猿島を海岸から見ると今まで海中にあつた部分が現れ、はっきり層をなしていたことを今でも思い出す。
私はまだ7歳であったし、60何年か前のことで記憶につながりがなく、ところどころしか記憶にないがあの日の大震動は、私の身体の中に今でも残っている。
昭和62年9月1日
追記 / 水嶋照之助
この文章は俳誌「惜春」昭和63年(1988年)9月号に登載されたもので、本人の了解を得、再録いたしました。
平成8年9月1日
出典:関東大震災の思い出 追録(平成8年11月3日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/
前のページへ : 追録目次へ : 次のページへ
関東大震災目次へ
わたしも家に帰っていた
昼食をすませていたであろうか
すませていなかったであろうか
記憶していない
60年前のことであるから
衣服は洋服でなく着物を着ていた
60年前のことであるから
それは白い絣の着物であったろう
60年前の
季節は初秋であったから
蝉が鳴いていたであろうか
「蝉鳴いていたかも知れぬ震災忌」
物すごき上下動
凄まじき水平動
大正12年9月1日
午前11時58分
あの日父は茶の間に常時置かれている角火鉢の前に座っていた。ここは父の座で、くつろいでいる時はいつもここに座っていた。
父の後には、幅2尺、高さ1間ぐらいの茶器などを入れる戸棚があった。扉は片開きの障子張りの古いものだったが、それが父の背中に倒れて来た。軽いものなので怪我はなく、身を低くすると戸棚は角火鉢を枕にした形になって、父はその空間に身を低くじっとしていた。
自分の部屋にいた私より6つ上の兄が逃げて来て、父の背中にすがりつくようにもぐり込んだ。
7歳であった私は、母(育ての母。生みの母は、その2年前の大正10年6月17日、当時5歳の私を残して亡くなった)の手に引かれ、座敷の中をただうろうろと逃げ惑った。
私はあわてなかった父の姿と、母の手に引かれうろうろしたことを、今もってはっきり思い出せる。
10上の一番上の兄は、表で自転車のタイヤに空気を入れていた。西浦賀の方へ父の言いつけで出掛けたが、少し家を出たところでタイヤの空気が気になって帰宅して空気を入れているところだった。もしそのまま出掛けていたら、時間的に言って浦賀ドックのあたりで、大きな山崩れにあって生き埋めになったろう。この事は、後年になって兄はよくみんなに話していた。
私の家はひどく傾いたが倒壊は免れた。しかし余震が頻発し(記録によると、初震以降の東京における有感覚の余震数は、9月5日午前6時までに926回以上、9月1日だけにしても午後6時までに171回以上あった)危険なので、庭の芝生にうすべりを敷き、当分ここで暮らした。
浦賀の町も約半数は倒壊し、それに大きな山崩れが2ヶ所、崖崩れも処々あって多数の死傷者が出た。しかし民家からは火災を出さず、東京、川崎、横浜等のような大火災による二次的災害はなかった。これは、お昼時であったにもかかわらず、各家庭での火の始末をきちんとしたからであろう。浦賀造船所は火災を起こしたが、民家に類焼しなかった。
私たちが住んでいた三浦地区は、大震災によって隆起し、浦賀港は一時海水が無くなったという話もあった。横須賀沖にある猿島を海岸から見ると今まで海中にあつた部分が現れ、はっきり層をなしていたことを今でも思い出す。
私はまだ7歳であったし、60何年か前のことで記憶につながりがなく、ところどころしか記憶にないがあの日の大震動は、私の身体の中に今でも残っている。
昭和62年9月1日
追記 / 水嶋照之助
この文章は俳誌「惜春」昭和63年(1988年)9月号に登載されたもので、本人の了解を得、再録いたしました。
平成8年9月1日
出典:関東大震災の思い出 追録(平成8年11月3日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/
前のページへ : 追録目次へ : 次のページへ
関東大震災目次へ
▼ コメントする